☆映画「悪魔祓い聖なる儀式」を観て…ヒーリング私記

 

 

 

 
一昨日は夕方よりの電話でのセッションを終えた後で渋谷の映画館へ行ってきました。
 
「悪魔祓いと聖なる儀式」題名からすればオカルトやホラーチックなものを連想させるそのタイトルですが、この映画に出てくる教会はバチカンの認める正統なものです。
 
内容は1200年の歴史を持つイタリアに於ける現在のエクソシスト(悪魔祓い師)の活動や、その教会の神父や教会を取り巻く信者の赤裸々な姿がとらえられており…
エクソシストと言うとおどろおどろしいイメージさえありますが、人間味ある神父の姿や教会を取り巻く人間達の光と闇、生活感ある映像、教会への依存、信者同士に見る過干渉など、様々なパターンが、赤裸々に撮られていたものです。
 
この映画の中で「悪魔に憑依されている」と訴える方がイタリア各地からシチリア島の教会にやってきます。悪魔祓いの神父が、「父と子と聖霊のみなにおいてアーメン」と十字を切り、聖水をふりかけると、それまで普通に大人しくしていた方が、トランス状態に陥り、奇声を発したり、獣の如き唸り声と噛みつく姿勢を取ったり、白目を向き罵詈雑言を口にしたり、明らかな別人格の憑依の様子が撮られており、映画「エクソシスト」さながらの迫力ある場面も…
 
ここ数年は、私のサロンを訪れる方のセッションに於いても、具体的に悪魔や自然霊の攻撃を受けていると話してくださる方が多くなりました。
そうした事から、私も憑依の緊急避難の様なセッションから、浄霊は何度もしてきており(ブログ非公開のケースも)様々な奇態や奇声などを発する方も見てきておりますが、この映画の中で、神父がどの様に悪魔祓いの「セッション」を進めて行くのかヒーラーとしての観点からも興味深いものがありました。
 
悪魔祓いを行う神父の唱える呪文の中に、「第5チャクラを委ねる」など、各チャクラの重要性を認めるかの様な言葉があった事や、憑依の状態にある人間に対する手かざしやクラウンチャクラへのタッチヒーリングとも思える所作など、ヒーリングの併用も感じられたものです。
 
話は変わって…
 
よくヒーリングをされる方などから、憑依の状態にあって混乱している方などへの対処を聞かれる事がありますが、爽やかにヒアリングから始まるセッションばかりでなく、刹那の不測の対応を試される時があるのもヒーラーと言うものかも知れません。
 
暴れたり突き飛ばされる恐れがある時は憑依されている方の正面には立てませんが、充分に聖霊(ハイアーセルフ)との繋がりを意識し、相手の方に迅速な癒しがもたらされる様、自分の言葉で心の中で祈り、クラウンチャクラ(頭頂のチャクラ)と額にある通称サードアイ(第6チャクラ)、もしくは後頭部、頭蓋と首の付け根に手の平を置き、自分の両手の平を相手の頭部を通してゴールドのエネルギーで結んでしまうイメージをします。
 
これは、その当人にコントロールを及ぼしている何らかの存在からの影響を一時的ですが遮断する働きを持つもので、さらには手の平を置く頭頂より、第7、6、5、4、3、2、1と背骨伝いに各チャクラを光で満たす観想をすると落ち着きを取り戻したりもします。
(むずかったり、憑依している存在が抵抗する場合など、信頼関係があるならバグをして行うなどの工夫も必要)
 
落ち着きを取り戻したその後で、浄霊なり自身のセッションをすれば良いのですが、自分のセッションでは無い、担当外なものを感じた方などは、その道のエキスパートの元へ行く様勧める謙虚さも大切な事で、しっかり自己ヒーリングや浄化が出来ぬのに、力任せに浄霊ワークなどをしたが為に大きく体調を崩す場合などもあり(回復まで長い期間の場合も)注意が必要な事でもあります。
 
この映画の主人公はバチカンを本家と仰ぐ教会の神父でもあり、「キリストが犠牲になればこその私達の平安であり、キリストの流した血が特別である」と力説し、教会でミサなどにも参加させ、信仰につかせる事に誘導して行くのは、神父と言えども霞を食べて生きてはいけず、教会の運営の上でもしかたない事と言えるかも知れません。
 
でも、その傍らで、カメラはイタリアのカリスマ神父をハシゴするするかの様な憑依体質の女性の姿も追っており、一人の神父からは「全く問題ない」と言われ、二人目の神父からは「精神的な問題」と言われ、三人目の神父からは「重篤な憑依」などと言われ、どれが本当なのか?と「教会に行けば行くほど混乱する」と心情を吐露する様な場面もあるなど、お国柄は違えども、日本のたらい回しスピリチュアルに病んでしまう人のケースと同根のものも見て取れる様な気がしたものです。
 
神父から悪魔祓いの儀式を受けて憑依から脱したと言う若い女性の姿も…しばらくの時を経て家族と共に神父にお礼をかねて教会を訪れる姿などが映し出されていたものですが、笑顔で元気になったと思いきや、教会を訪れ懐かしんでいるのも束の間、また以前の記憶を引き戻すかの様に頭痛が起こり「何か別の存在が入り込もうとしている」と訴えだし、挙げ句の果てはミサにも参加せず、「私より強いものが私の中にいるからいいんだ、こんなところ(教会)に用はないから帰れと言っている(憑依する存在が)」と半ば憑依を良しとする開き直りを家族の前で見せ、付いてきた父親を、これまた信仰をサポートする女性が「信心が足りない」と言わんばかりに、その父親の在り方を批判するなど、思う様にならぬふがいなさや、やるせなさを、お互いに投げ付け合う一幕なども映し出されていました。
 
※私のところにセッションでおみえになる方にも憑依体質を嫌いながらも、実は未成仏の霊などにコントロールを受けたり、コンタクトを取るのを良しとしてしまっている人が今までもおり、そうした場合、心身の安定を欠き、躁鬱の波、病気や怪我のループに入ってしまったりで、なかなか抜け出せなかったりもする様です。
 
この映画の主人公の神父さんは、サタン(悪魔)が全ての元凶である事を説いていました。
 
また、親のキリスト教への信仰が足りないから弱い子供が悪魔に叩かれる(憑依)とも…
 
この映画の主人公の神父、とても愛ある視点で人を見ているものを感じましたが、それでも信仰やミサへの参加と悪魔祓いがパッケージになっているものは否めず、この教会自体が癒しの場であると同時に、ある人にとっては縛りを生じさせ、悪魔への恐怖を顕在化させる象徴にもなっているものを映画の画面から感じたものです。
 
現在エクソシスト(悪魔祓い)はバチカン公認の元、各教区に育成配置するなど、以前に比べて何倍もの増員が為され、これはヨーロッパ全土、アメリカでも10倍との数値が報じられていました。
 
これも、私達人間の無意識下の恐怖、狂気、報復される恐れなどが顕在化している事の現れと言えるのかも知れません。でも、私はこの映画を見ていて、憑依を訴える老若男女、子供の姿、家族の姿、荒れ果てた室内の風景などを見ている内に、幼少時から決して満たされる事のなかった自己承認欲求や、赦せない、癒されていない親子間や人間関係、そうしたものが蓄積され、憑依を招く、または人間のエネルギーセンターでもあるチャクラを歪めてしまい発作を伴う奇行が現れるなど、必ずしもサタンの画策(笑)ばかりではないものを感じるばかりでもありました。
 
この映画の主人公の神父…
「悪魔は油断しているとすぐにやってくる」とインタビュアーに話していました。
 
それを聞いていて…
「エゴは油断しているとすぐにやってくる」と自身の中で置き換えて映画館を後にした愚僧であります。
 
合掌
 
 
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