☆内なる神よりもご利益もたらす神が大切なのか?…ヒーリング私記

 

 

以前…「ハイアーセルフよりもアマテラスにお願いした方が強力でしょ!」とあっけらかんと言い放った方がいたものです。

※ハイアーセルフとは内なる神、内在神とも言われ、過去生や未来生、カルマや課題のすべてを知る誰しにもある聖霊の事。日本で馴染みの守護霊や先祖霊とは違います。

またある時は、「○○神て、私も好きな神様だったんだけど、前は仲の良かった○○さんが、その神様の名前でワークショップ開いたりで、理由も分からないまま友達削除された後で拒絶反応出ちゃって、その神様がお祭りされている神社へ行くのも今はNGになっちゃいました」と言う方などもいたものです。

これ、わりとスピリチュアルずきの方に多い神仏観とも言えるもので、パワーや力の大小、効験のある無し、どこまで人間の欲求に答え得るのか?開運から縁結びまでを求めるものの、願いが叶えられなければ…
ある時は観音様、ある時はお不動様、ある時はそれがキリストになったり、ある時はアマテラスに変わったり、大天使ミカエルなったり、ある時は宇宙人だったり、ある時は覚醒の先を行く様に見える生身の肉体を持った人間だったりと…(笑)

人間のその時々の都合で期待したり、信じたり、喜んだり、裏切られた様な気持ちになったり、興味が失せる様に他の神や高次の存在にその信ずる位置を譲り渡してみたりと…
人の信ずる神や仏、高次の存在、アセンデッドマスターなど、その時々の人間の都合でマインドの中で入れ替わったりする傾向と言うものもある様です。

またそうした信ずる高次の存在の鋳型には、その時々、自分が関わった人の影響がある場合も多く…
その人間との関係が解消されたり、何か離反する様な事があると、その信じていた神へも愛想が尽きてしまうと言う様な、一蓮托生の心理効果と言うべきか、それとも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」とでも言うべきものなのか、中には自分が信じていた(相手から信心を勧められた)特定の神仏を使って、関係を断った自分を相手が調伏してきたり、呪術によって今現在も呪っているに違いないと話してくださった方もいたものです。

でも、その人自身も過去には人をコントロールする為にサイキックな攻撃をしていた事なども正直に明かしてくれたもので、気の毒な様ですが、身から出た錆、自らの毒に当てられた事を認めてもらうところからセッションを始めた事なども度々あったものでした。

宗教上の神や仏、自然神、高次の存在、天使、アセンデッドマスター、何を信じ様とも人間の自由意思に任されるものでありそれは尊重されるべき自由に違いありません。
「意図する事はエネルギー」信ずるところに自分の思いのぞむ結果がやってくる事もあれば「そうでない事」も起きたりします。でも、信ずるシンボライズされた神の鋳型を持つことは、安心に繋がり、ある程度の気付きのレベルの向上をもたらし、地に足を着けるグラウンディングの働きさえ多少はもたらすものです。

私はある時から神や仏、天使や釈迦やキリストに代表されるアセンデッドマスターに見る美しさや、そこに感じる愛と言うものは、誰しにもある内なる神、聖霊の投影と見る様になりました。
破壊と再生の星であり、幻想の時空とも言われるこの娑婆(シャバ・人間世界)に於いては、宗教上の神や仏さえも、知性や特性、個性を持つかの様な「ヒーリングの磁場」であると言うのが本当のところの様な気がしてなりません。

加持祈祷やヒーリング、何らかのシャーマニズム伝統的なものまでを含めてそれらとアクセスする事により、奇蹟と癒しを起こしたりもする様に見えますが…
その奇蹟と見える事も、癒しのプロセスも、誰しにもある聖霊(ハイアーセルフ)がしっかり引き受けているものをヒーリングの現場に於いて感じるばかりで、そうした事からヒーリング時は勿論、法衣に着替え、いかつい(笑)大元帥明王など自坊本尊を目の前にした加持祈祷に入る時でさえも、ハイアーセルフに結果を明け渡すかの様に心の内で自分なりの言葉を唱え、充分な繋がりを感じてから、三礼(さんらい)と呼ばれる本尊、諸尊へのご挨拶から始まる修法に入って行くのが今では常となっています。

こんな観想をする密教僧は全国広しと言えども私だけなのかも知れません(笑)

自分の信ずる神や仏、高次の存在、アセンデッドマスターを求めるばかりにかえって心の平安を失ってしまっている方などもお見受け出来る時があるものです。比較対象を用いて、人を落ち着きのないゲームに巻き込んで行くのもエゴの得意とする事であり、神の名前に触れていれば、何らかのスピリチュアルな活動に従事していれば逃れられるかと言えばとんでもない話で、神の名前さえも利用してエゴは人を対立や争い、答えの出ない不安に向けてくるものであり、とかくそれは高みに立っていると「特別性の幻想」に陥りやすい宗教、スピリチュアルな世界こそ、深刻なエゴが横行していると言ったならば、辛口に過ぎるでしょうか?

私はよく思う事があります。神社開運流行りの今日ですが、神社へ赴く前にまずは自己の内在神であり、聖霊との繋がりを日頃より意識し大切にする事で、より寺社仏閣の神や仏も善い働きをもたらしてくれ様と言うものです。

横文字や長い名前の神や高次の存在、または美しい女神に聞かせるにはあまりにも憚りを感じる自分の毒々しい思いも、葛藤も傷心も、言うより早く、自らの聖霊は知っています。聖霊(ハイアーセルフ)に対して、神社の参拝の在り方で言われる様な、住所姓名を改めて名乗る必要などもありません(笑)

私は「信ずる神などいない!」と言う方によく「信じる神がいなくてもいい、でもあなたはひとりぼっちじゃありませんよ、たとえ身寄りと呼べる人がいなくとも」と、ハイアーセルフの存在をお話しさせて頂く事があります。
神に答えを求めたいと思ったならば、本当に心からの友人が頭のてっぺんのさらに上にでも、または孤独を感じる今この空間の何処かにでも、全なる神と直結している聖霊がいると思い、恐れでも悲しみでも答えの出せない葛藤でも思いっきりブチまけたら良いのです。

ただ、独りよがりの雄叫びと、聖霊に語りかけるその違いは何か問題や恐れに対する思いや、それが人間関係に対する問いかけであっても、即座に自分とすれば認め難い「画像」を送り返してくる場合もあるもので、そうした事に耳を塞がずに自分のエゴを認める事が必要となってきます。

またそれは時間を経過してより、突如の閃きで訪れたり、家族や人との会話からインスピレーションとして受け取ったり、テレビの何気ないシーンを観ている時のハタりとした感覚、新聞や週刊紙の一節からなど、その人に相応しい形を取ってもたらされる様です。

形なきハイアーセルフとの繋がりの上で、朝でも夜でも、語りかける習慣が大切で、フィードバックするものに注意を払う事で関係を強化して行く事が出来るものです。

特定分野の開運とは違いますが、聖霊が担当しているのは私達の全てであり、心の平安を伴う真の開運へと導く存在でもあります。

私達は経済的な豊かさを手にすれば、愛する人を手に入れる事が出来れば幸せで、そこに心の安寧もついてくるものと大きな勘違いをしがちな生き物でもあります。また世間に見えるあらゆるものが、これを賞賛し煽り立てているかの様にさえ見えるものです。それは「肉体が全て」と思わせるエゴの計略と言うものかも知れません。
エゴの台本のままに生きるのか?それとも聖霊の台本で生きるのか?と言う二者択一のレッスンが、この人間世界で生きる私達にはしっかりと用意されていると言うのが真実の様です。

「せっかく人間に生まれて来たんだからその時々のエゴの肯定も大切、虚栄や快楽も楽しめば良い」と言うのもこの世界の過ごし方の一つかも知れません。でも、とかくエゴのもたらす台本に一線を引く事が出来ず、心を失い転落を描いて行くのも人間であり、分かったつもりのさじ加減も、渦中にいる人間には出来ないと言うのが、極道当時から私が見てきた人間模様の中に見るパターンでもありました。

エゴがもたらす罪悪感をぬぐうためにさらなるエゴを踏襲して行く事は、戦争の根にも、暴力やいじめの根っこにも共通して見られる鋳型でもあります。

聖霊の決断と台本のままに生きる。それは心の自由と平安を得る事の出来る生き方でもあります。

「心の平安を得る」それは取るに足らぬ些細な事なのでしょうか…?

合掌

 

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