★ヒーリング私記…ヒーラーに見る愛とは?

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※当サロンにおけるヒーリングセッション時の模様です。お客様の了承を得て写真を掲載しています。

ヒーリングの世界なども海外のものから日本に発祥を置く霊氣(レイキ)の様なものまで、諸流諸派、様々な形態のものがあります。ヒーラーを志す多くの方達にとって、開業にこぎつける為の資格認定の取得と共に、それを裏打ちするテクニックやスキルを身に付ける事が当面の最重要課題と言う事において共通のものがあるのかも知れません。

でもその一方で、愛と言う事にも改めて目を向けさせられるのもこの時期なのかも知れません。
ヒーラーやセラピスト、カウンセラーなど、スピリチュアルなお仕事にたずさわる人にとって、そのワークの形態は違えども、愛を持ってクライアントやヒーリーに接する事は、ヒーリングのクラスなどで教師などから概念の上では習いはしても、どこかおざなりで、ピンとこないと言うのが本当のところかも知れません。

※ヒーリーとはヒーリングの施術を受ける側

私などもかつては裏社会にいた日陰育ちなせいか、ヒーリングを学び始めた当初などは、このスピリチュアルな業界でやたら出てくる、「愛」と言うワードに違和感さえ覚えたもので…

「愛、愛、愛!」とムダな鉄砲も数撃ちゃあたるとばかりに(笑)
愛と言う言葉をことあるごとにまじないの様に用いれば、自分の霊性やスピリチュアルな品格さえも高まるとばかりに、スピな業界の社交辞令と化している薄っぺらなものさえ感じた様な時さえあったものです。

「愛」と言う言葉を唱える事と、自らが愛ある存在である事は別次元な様で、資格やテクニックから入っていったヒーリングが頓挫してしまうのもこうした事に突き当たるからではないでしょうか?
ヒーラーになったからと言って、カルマが解消されて高次の存在にでもなったと思ったら大間違いで、幼少期からのトラウマなど、自らの落として行くべき部分や浄化が必要な記憶など、ハイアーセルフがクライアントや出会う人々を通してでも繰返し教えてくる様な時があり、「癒し癒される」と言うよく知られるヒーラーとヒーリーの関係を現す言葉は、単にヒーリングの周波や氣が流れて癒されたと感じる体感の部分ばかりでなく、あまり心地よくない、認め難い気付きの部分にさえ、訴えてくる様な時さえあるのもヒーリングの内なのです。

※ハイアーセルフとは内なる神、高次の自分とも言われ、今生でのカルマや課題などの全てを統括する誰しにもある聖霊の事。

ヒーラーになったから何かエネルギーのバリアでも張り巡らし、世俗の人間関係で傷つく事などないのではないか?と思われる方などもいたりしますが、それはとんでもない誤解で、ヒーリングをする様になると、感覚も研ぎ澄まされ繊細になるので、傷付きやすくなるもので…特に女性などはデリケートに傷付きやすくなるパターンなども表面化しやすい様です。
でも、それがどこから発生しているのかを知り、エネルギースキルで自分軸を取り戻す事が出来るのもヒーラーなのです。

私の場合は、極道社会にいた当時に培った、ああ言えばこう言う的な(笑)自分の非を認めず、相手をやり込め様とするその性癖に繰返し向き合わされる様な時がありました。人間、心の砦としている信念や世界観を手放す時は恐いものです。
こんな時期、すでに僧籍を取っていた私でしたが「テメエなんざ、袈裟を着たチンピラだ!」と鏡に映る自分を罵った事も幾度かありました。

自分の弱さを知り、そんな未完な自分を赦す…それはそのまま見る人の姿に投影されて行った様な気がします。私は思うのですが、愛と言うものは、自然や生き物を慈しむ感情、親が子供に見せる無条件な愛など、色んなレベルのものがありますが、不本意で無様で憎々しく、時に理不尽な自分や人を赦す事、葛藤を感じながらも赦そうとするその事に顔を出し、入り込んでくるものの様な気がしてなりません。

こうした心持ちになってから、私は新たなエネルギースキルにもあまり興味が湧かなくなり、お客様が自ら選びとるヒーリング(癒し、変化、変容)の現場において、鏡の様にクリアにあろうと思うだけで、この時期から自分のヒーリングの質も変わった様な気がします。それはヒーリングのエネルギーやテクニックで相手に癒しをもたらそうとか、不調和を解消し様などと頭で考える事なく、相手に起きる癒しもその結果も、自分の持つテクニックも、全てハイアーセルフに預けてヒーリングに臨むと言う感じで、密教僧でもある私は、本尊を目の前にして法衣を着て行う加持祈祷の際も、ハイアーセルフとの繋がりを十二分に感じてから登壇すると言うのが本当のところです。

これから引用する文章は、ブッダやキリストに並ぶ覚者と言われたOSHOの著書から、マッサージや整体などのボディワークに言及した珍しい内容ですが、エネルギーヒーリングにも共通する事だと思います。

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それは、

何処までも続いていく・・・

経験は深まり、高まり続けていく。

それは、最も繊細なアート・・・

技術の一つだ。

テクニックの成熟度が問題なのではない。

それ以上に愛が問われる。

まず、テクニックを学んでごらん。

学び終えたなら、

テクニックを忘れ去ってしまいなさい。

そして、ただ、感じ、

感じるままに動いてごらん。

マッサージを深く学んでいけば、

その90%のワークは、愛によって為され、

10%は、テクニックによって為される。

ただ触れること、

愛を込めて触れることで、

身体の中の何かがくつろぐ。

その人を 愛し、慈悲を感じるならば・・・

相手の究極の価値を感じるのなら・・・

その人を

正さなくてはならない機械のように

扱うのではなく、

とてつもなく価値のあるエネルギーとして

扱うならば・・・

その人があなたを信頼してくれ、

自身のエネルギーと

戯れるのを許してくれたことに

感謝の念を覚えるならば・・・

あなたは、次第に

オルガンを奏でているかのように

感じられるようになる。

その人の身体全体が

オルガンの鍵盤となり、
その身体の中に

ハーモニーが築かれていくのを

あなたは 感じるだろう。

そして、

その人ばかりが癒されるのではない。

・・・あなたもまた、癒されるのだ。

マッサージは、

この世に必要とされている。

というのも、

この世から

愛が消えてしまったからだ。

かつては、

愛する人が触れるだけで、充分だった。

母親は子供に触れ、その身体と戯れた、

それはマッサージだった。

夫は妻の身体と戯れた、

それはマッサージだった。

それだけで充分以上だった。

そこには、

心からのくつろぎと愛があった。

しかし、こうしたものは

この世から消えてしまった。

次第に、何処に触れたら良いのか、

どう 触れたら、

どのくらいの強さで触れたら良いのか・・・・

人は忘れてしまった。

事実、触れることは

最も忘れられてしまった<言語>の一つだ。

触れることは

ぎこちないものになってしまった。

何故なら、いわゆる宗教家によって、

正にその言葉自体が汚されてしまったからだ。

彼らは、「触れる」という言葉に、

性的な色合いをもたせた。

その言葉は、

性的なものになってしまった。

こうして、人々は

<触れられること>を恐れるようになった。

誰もが、許可することなしに、

誰からも

触れられることのないように注意している。

そして今や、西洋では

これと対極をなすものごとが起きている。

「触れること」やマッサージが

セックスそのものになってしまったのだ。

今やマッサージは、

セックスを覆う単なる表紙、

包みになってしまった。

だが、実際には

「触れること」やマッサージは

性的なものなどではない。

それは愛の機能だ。

愛がその高みから落ちてしまえば、

それはセックスになり、

醜悪なものになってしまう。

だからこそ、

祈りに満ちていなければならないのだ。

人の身体に触れる時には、

あたかも神その人自身が

目の前に 横たわっていて、

あなたは神に仕えているかのように

祈りに満ちていなければならない。

全てのエネルギーと共に流れてごらん。

そして、身体が流れ、漂い、

エネルギーが新たなハーモニーを築くのを

目の当たりにすれば、

今までに感じたこともない程の

喜びが 感じられるだろう・・・

あなたは、深い瞑想の内へ落ちていく。

マッサージをしている時は、

マッサージだけすること。

他のことを考えてはいけない、

それは邪魔になる。

指や手の内に、

あなたの全存在、魂が存在するかのように

「ありなさい」

マッサージを

単なる身体に「触れること」 にしては、駄目だ。

魂の全てが相手の身体の中に入り、貫くことで、

深奥の「もつれ」が 解放されるのだ。

そして、何より

「遊ぶ」ようにして行うことだ。

仕事にしては 駄目だ、

ゲームのように、楽しんでするのだ。

笑ってごらん、

そして相手も笑わせてごらん。

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合掌

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