※セッション時の動画、写真などお客様の了承を得て掲載しています。
昨日は新宿区大久保のサロンにて、ルチルさんとのダブルセッションでした。
定評あるハイレベルなチャネラーとしての能力を駆使したルチルさんによる心のブロック解除の後で、私によるオーラやチャクラの浄化、エネルギーヒーリングを行うこのダブルセッションは、毎回好評を頂き、今回で5回目を数えるところとなりました。
この日も午前中から夜7時までのセッションでしたが、訪れた皆さんそれぞれが、喜び癒されたご感想を口々に帰って行かれる姿に、いつも感謝とこちらが癒されるものを感じるばかりのこのダブルセッションでもあります。
この日の最後のセッションは引きこもり(私は引きこもりを「合宿中」と呼んだりもします)の傾向のある若者とそのお母さんが時間をずらしてセッションを受けにお越しくださったものです。
その初対面の若者、対目に座るだけで頭脳明晰な事、豊かな内面世界がある事が分かる様な気がしたものでしたが…
今までヒーリングなどのセッションを受けた事があるか質問すると、この10年の間に色んなヒーラーの元を訪れ、ヒーリングやセッションを受けたものの、体感も含め何一つピンとくるものが無かった事を短い言葉で語ってくれたものです。
私がこの若者へのヒーリングを終えて感想を聞くと…
ヒーリングを施す為、私が若者の後ろに立った時より強いエネルギーの流れを感じていた様で、身体中をエネルギーが駆け巡る感覚が終始し、身体の熱さや何物かに強く引っ張られる様な体感など、不思議体験だったと語るこの若者に、私は半ばジョークで「それではこれこそがヒーリングだ!って分かりましたか?笑」と聞くと、「はい、分かりました!」とにこやかな応答(笑)帰る時には来た時とは違うオーラが一枚剥がれ落ちたかの様な明るい表情、そのエネルギーに、ルチルさんのブロック解除セッション、続く私のヒーリングが、この若者の前途に良いシフトをもたらす働きとなって現れん事を教えてくれているかの様な気さえしたものです。
この日最後のお客様は、この若者のお母さんでしたが、セッションを終えて、次の順番を待つ母親の元へ来た若者、少し興奮気味に「母さん、行って受けて見れば分かるよ、今までのヒーリングとは全然違うよ」と話していた様で、ルチルさんのセッションの後で私の目の前に現れたこの若者のお母さん、謙遜気味に「先程は息子がお世話になりました。私はあまりヒーリングを受けたりしても感じる事が少ないものですから…よろしくお願いします」とご挨拶してくださったものですが、それに対して私はこれから行うヒーリングの簡単な解説や、必ずしも体感があるばかりがヒーリングでない事などもお話しさせて頂いた後でヒーリングに入りました。
開始直後より身体が前後左右に揺れるなどの感応が出ていたもので、終了後、内気功の心得もあるこの女性からはスパイラルに身体を巡るエネルギーの流れ、空間と同化し身体が無くなったかの様な感覚が訪れ、やはり不思議体験だった事などをお話しくださったものです。
この他にもヒーリングの最中に、ハートに感謝の念が差し込んでくる様な思いがしたと語ってくださった方、弱い胃腸を集中的に押されている様な感覚が訪れていたと話す方、幻想的な夜空から光が差し込むイメージが見えたと話してくださる方など、様々なご感想を皆さん口にされていたものですが、ヒーリングの体感や見るイメージと云うものは、その時々その人に相応しい形のものがある様で、ヒーラー側の私からすれば決して珍しいものではありません。
何をどうすると云う様な、ヒーリングを術としてとらえればテクニックに陥り、結果ばかりを重視するものとなり、完全無欠は描けない、この娑婆(シャバ・人間世界)を貫いているエゴの法則の餌食となり、やがて完璧を期せないセッションばかりがクローズアップされる事必定で、葛藤と未消化に苛まれる事になってしまう傾向と言うものがあります。
「ヒーリングに深刻さは必要ない」と言うのは実はこうした事を裏打ちしている事でもあるに違いないのです。
最近では「正仙さん顔が本当におだやかになりましたね」とか、「顔が変わりましたね」とか言われる事が多くなりましたが…笑
昔アウトレイジな世界に生きていた頃、私の舎弟分などが私によく言ってきたものです。
「兄貴、気に入らねえ奴は、兄貴の十八番でキカイおっ付けちまえばいいじゃないですか」と…
ここで言う「キカイ」とは拳銃を現す隠語で、おっ付けるとは、文字通り拳銃を突きつけてホールドアップ させる事を意味しているもので、これは当時の私の究極の世界観でもありました。こうした信念体系と言うものは何かあれば開き直る、居直る、Vシネ調にカマシまくる(笑)など、日常の所作の隅々にまで行き渡るもので、私がスピリチュアルな世界に入って事あるごとに自分自身に突き付けられた「赦しのレッスン」でもありました。
人間は感情の生き物と自分の傲慢さやエゴには目をつぶっている内はヒーリングもどこか単体の術となりがちなもので、常に一点だけ満たされぬかの様な未消化な思いも湧きがちで、セッションを聖霊(ハイアーセルフ)に明け渡す事が出来ず、自分の力やテクニックでカバーしようと言う様な幻想に陥りやすいものです。
知性を持ったヒーリングのエネルギーの周波やエネルギーが勝手にヒーリー(ヒーリングを受ける人)なりクライアントなりを勝手に癒してヒーリングすると言う見方もありますが、これも二元的な見方で、その人間の向き合う魂の課題となっている事まで、何かをひっぺがす様に取り去る事は出来ないもので、ヒーリング(加持祈祷も同様)が逆にそうした事に向き合う事へ加速させているかの様な働きを見せる時もあり、本人とすれば不快な状況が現出される事だってあるのです。
私はヒーリングや加持祈祷に於いて形を与えている様ではありますが、「私には何も分からない(結果等)」と内なる神である聖霊に明け渡す事が出来る様になってから、結果にこだわらず、自身の心の平安も兼ねた良質のヒーリングセッションや加持祈祷が出来る様になりました。
そこに至るまでは全方位に向けられた様な自分の心の垢、人を通して見せられるエゴのパターンに向き合う日々が続いた事、今だってうかうかしていると感情の虜になり兼ねない時もありますが(笑)今日までその訂正のスピードを上げてこれた事など、「赦しのレッスン」とは、それが出来事であろうが、人の姿を通して現れる葛藤であろうが、皆、自らが必要必然から生じさせている自分発信のものである事…そうした無意識下から浮上してくる罪悪感を癒し赦して行く事が生きながらにしての神仏の境地、安心(仏教ではあんじんとも云う)に繋がる事、ハードな諸行無常を過去には眺めてきた私には本当に今、分かるものがあります。
高みに立っているなどと気取るつもりはさらさらありませんが…
こうした自身の自浄の習慣が、人の弱さや醜さを見つめる揚げ足取りの視点から、器や形はどうであろうとも、人の神性や本来持つ輝きを見つめる視点へシフトして行った事、私の顔が穏やかになったと感じる人が多いとしたなら、あまりにも凡俗の答えかも知れませんが(笑)それは内面世界の投影以外の何物でもないかも知れません。
そしてそれはヒーリングセッションでヒーリーやクライアントとして目の前に現れる方達にも投影されるものであり、そういう意味に於いてもヒーリングとは一方通行なものではなく、昨日のダブルセッションでも、魂の兄弟達にヒーリングさせて頂いているものを感じるばかりの愚僧でありました。
昨日ダブルセッションでお会いしました皆さんありがとうございました!
※次回開催も予定しております。日程が決まり次第お知らせしますのでダブルセッションにご興味のある方など、楽しみにお待ちください。
合掌