★攻撃こそ最大の防御ではなかったのか!? …ヒーリング私記

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私達人間は他者への攻撃が暴力であろうと、言葉によるものであろうと、俗に言うシカトや威圧など、雰囲気として滲ませるものであろうと…それが良くない事を理性の上では知っています。

でも、その一方では「攻撃は最大の防御なり」「目には目を歯には歯を」の忠実なる信奉者であったりもするもので(笑)子供から大人まで、それぞれが立つ世界の中では、自らのアイデンティティーを賭けて戦い、相手をやっつけるのは仕方ない事と思っているのかも知れません。

そもそも相手を罵ったり攻撃する事は、感情の生き物でもある人間である以上、人生のあらゆる局面に散りばめられた事であり、時には不可抗力の様に行き過ぎがあるのも仕方ない事と…とかく私達人間は、他者に対する自分自身の無軌道な感情の爆発や、冷淡な仕打ちには寛大な事この上ない生き物なのかも知れません。

攻撃と言う事とは少しニュアンスが違うかも知れませんが、例えば、親が子供を過度に叱りすぎた時など…「これも親から子に対する躾の内なのだから、私は決して間違ってはいない…それに私が子供の頃はもっと厳しく親にイジメられたし、躾られたのだから当たり前だ」とエゴを元にしたマインドは得心させ様と囁いてくるものです。

でも…そんな時でも、内なる声は、子供に対する怒りが、本当は収入を元にした夫婦の諍いからくるイラツキを子供に投影し、子供の躾に名を借りた八つ当たりをしていただけである事など、生じた怒りの本質を胸の奥で告げているものです。

しかしながらこうした内なる声を認めれば、自分の親としての立場を傷つけ失墜するかの様な恐怖を感じ、耳を塞いでしまい、さらに子供をコントロールしないでは気が済まないかの様に、過干渉を描き、決定的な破綻や(病気、事故も含む)対立を迎えるまで、それは続いて行く傾向もある様です。これは何も親子ばかりでなく、夫婦や恋人、友人、会社の上司と後輩、師と弟子などの人間関係全てに発生しやすい、負のエネルギーの法則とでも言うべきものです。

私はお客様から「カルマとは何ですか?」とよく尋ねられたりしますが、こうした日常の感情の矛先の向け方の集積こそが、カルマを形成している事、声を大にしてお伝えしたい事でもあります。

それに比べて、先程の例で言うなら、子供に対して行き過ぎがあったなら、「お母さん(お父さん)がさっきは言い過ぎてしまってごめんなさい」と勇気を出して謝れる親と言うのは、子供の方でも、親を人間として理解する部分が生まれ、時には子供とのディスカッションに晒され、疲れたり、傷付いたりする事はあるかも知れませんが、親子の枠にとらわれず、良い関係に発展して行くケースも多い様です。その時々で、親から大人、子供へと柔軟に視点を変える事も今の時代の親子関係にとても必要な事の様に思えてなりません。

話しは変わりますが…

「DV男の女性への平謝り」と言うケースがある事はあまり知られていないのかも知れません。

事あるごとに女性の顔の形が変わる程の暴力を振るう男の姿と言うもの…
そこにどれ程の恐れと狂気が潜んでいるかと言う事は、密教僧侶ヒーラーとして歩む今なればわかる事もありますが、まだ私が極道当時など、DVの被害に遭っている女性のご家族などから、DV男と、娘を別れさせて欲しいと頼まれる様な事があり、女性を安全な場所に確保した上で、DV男をカマシまくり(脅しあげる事)無理やり後腐れの無いように別れさせてしまった時もあったものでした。

こんな時でも、暴力に遭った女性は無思考状態で何も考える事も出来ず、ただ暴力の洗礼が通り過ぎるのを日課として待つ、隷属させられるばかりの日々だった様で、助けを求める事など及びもつかなかったと話してくれたものです。

双方から話を聞くと興味深い事も判明し…顔にいくつもの黒アザが出来るほどの暴力をふるっておきながら、翌日は涙まで流して土下座せんばかりに謝るDV男の姿もあった様で、この女性を失いたくない恐れがやがて嫉妬から狂気に形を変え、この女性との絆や愛情を試すかの様に暴力をエスカレートさせていったプロセスがあった事を聞くに及んでは…まるで子供が捕獲した虫の足を一本ずつもいで、その反応を楽しそうに見る様な、痛みを知らぬ子供ゆえの残酷さをさらに発展させた倒錯されたものをこのDV男に感じたものでした。

最後には涙と鼻水まじりに懇願するこのDV男の姿がどこかしら哀れでもありましたが、「(女性に対して)これから先、不審電話一つかかってきても、石ころ一つ飛んできても、俺は全部お前のせいだと思うからな、いいか!あの娘の近くをうろついていたなんて聞いただけでもブチ殺すぞおどれ!わかったんかい!」と、極道当時の事でもあり、しっかりDV男にクンロクを入れ、現場を後にした私でもありました。

※「クンロクを入れる」とは、この場合は脅しながらも諭す事。

話しが少々脱線してしまいましたが…(笑)

人間誰しも、家族や配偶者、友人、会社の人間関係など、どこかしら未消化で自分をコントロール出来ぬ状況を抱えている場合が多いからこそ、多くの人が、愛やスピリチュアル、世界平和と言う様なワードに惹かれる傾向もそこにはあるのかも知れません。

でも、例えば世界平和の運動に参加し行進しているからと言ってその人の内面が平和とは限りません。もし、自らの平和への理念に理解を示さない家族を罵り喧嘩ばかりしているとしたら、本末転倒、何をか言わんでもあります。

スピリチュアルなセミナーやワークショップに参加しているからスピリチュアルなのではありません。
いかなる感情や人間関係の問題を抱え様とも、お客様やクライアントと向き合う時だけ、ヒーラーとして、セラピストとしての職分を果たせばそれはそれでブロフェッショナルな意識に照らして評価されるのでは?と言う見方もあるかも知れませんが、エネルギーを扱うヒーラーや、リーディングやカウンセリングを行う透視リーダーにとって、自らの想念やエネルギーをクリアにしている事はとても大切な事で、お客様やクライアントに対するエネルギー上のエチケットでもあります。

画像が粗い(不安や恐れなどの感情のパターン等)ままにセッションに臨む事は、ヒーリングやセッションを確信の持てぬ未消化なものにしてしまい、クライアントやヒーリーに影響が出たり、逆にお客様が不安や恐れから発するエネルギーを持っている場合など、引き合う様に共鳴し、ヒーラー側に不調が出る場合も多いものです。

※「ヒーリー」とはヒーリングを受ける被験者の事。

私はある時から、それが何かの術であろうとスキルであろうと、テクニックであろうとも、宗教上の神の姿であろうと人は信じたいものを信じ、学びたいものを学ぶ事に於いて自由である事を思う時、人を癒し何らかの影響を及ぼす事に心を砕くよりも、自らがクリアである事が、ヒーリングやリーディングでも、密教僧としての加持祈祷でも大切であると感得し、今日に至っております。

人間誰しにも共通する今世の一番の課題とは、ズバリ「赦しの実践」に他ならないのではないでしょうか?

私達はスピリチュアルな観点からする課題と言うと、まだ出会ってもいない深遠な人との出会いにそれが用意されているものと思いがちです。それに赦しと言うと、何か無感情で、人に意地悪されても受け身一方で薄ら笑いさえ浮かべている様な、能面の様な顔をした聖教徒にでもなったかの様な喪失感にイメージを置く人も多いと言ったら驚きでしょうか?

適者生存のエゴのシステムはどこまでも、「肉体が全てである」と言うところに人間の意識を向け様とします。よく見渡して見れば私達の生きる世界が、身体を失う事の不安や恐れに恫喝されるかの様なシステムや構造を為している事は、スピリチュアルに生きる多くの方が語っている事でもあり、私などが言うまでもありませんが、こうしたところに身近な人や出会う人を不滅で無辜(罪の無い事)のスピリット(精霊)として見る事の出来ぬ難しさがあったりもします。

でも、人生のところどころに現れるかの様な手強く憎い相手でも、何らかの霊的使命を帯びて現れている存在であり、メンタルトレーニングをしてくれるマスターである事に違いないのです。それは自分自身のエネルギースペースに姿を現している場合も多く、親子や夫婦、嫁と姑、友人や会社の上司や同僚など、身近な人間関係として現れている場合が実に多いものです。

たとえ人生に起伏の激しい稜線を描こうとも、その時々の感情のままに生きるのも人間らしい生き方と言えば、それは言えるのかも知れません。

でも、少なくとも、スピリチュアルな気付きを大切にし学びを続ける者にとって、怒りには怒りで応じる事が、憎しみには憎しみで応じる事が、それまで培った安心や癒しを吹っ飛ばしてしまう働きがある事は、私自身の経験にも明らかなものがあります。

赦しと言う時…私達人間は「相手が謝ってきたからしょうがなく」「こちらの言い分を通す事が出来たから」と、どこかしら条件付けされた駆け引きの匂いのする赦しに慣らされているものです。

でも、例えば、気持ちの中で、赦す気持ちを六分、赦せぬ未消化な気持ちを四分抱えて相手を赦したとすると、四分の未消化なエネルギーは相手に「貼り付けたまま」であり、そうした事は自分自身にも影響を及ぼし、スッキリせず、相手にもそれはいずれ伝わるところとなり、また新たなトラブルの火種となって具現化するのも、エネルギーの真理なのです。

憎い相手、赦し難い相手も、自分が必要必然から今世でスケープゴートしたイメージである事を知り、本当は全てが繋がり一つである事、霊的実相では他者は存在しない事を理解する時、怒りには怒りで応じる事なく、そんな相手も自分の何かを映し出してくれている鏡の様に思え、通り過ぎる者である事もたやすくなって行くのかも知れません。
(その上で相手に訴訟などの手続きが必要な時は進めます)

最後に私の好きな「奇跡のコース」より引用したいと思います。

※「奇跡のコース」はイエスキリストのメッセージをヘレン・ジャックマンと言う女性が口述筆記した霊性の書です。

私は攻撃の思いを放棄することによって、

私が見ているこの世界から脱出することができます。

この引用の文章の「攻撃の思い」 をの冒頭に、具体的に相手の名前を入れたり、逆に「○○さんから攻撃されている思いを放棄することによって」と入れ換えて唱えるだけでも、怖れが消えて行くものを感じるかも知れません。

まだ私が極道の世界に生きていた頃、私との電話でのやり取りで、私の怒鳴り声に運転する車をガードレールに激突させた方がいたものでしたが(笑)かつてはそんな癇癪持ちだったからこそ、その後のヒーラーとしての学びを裏打ちするかの様に、攻撃、暴力がどの様な顛末を描き、自分に巡ってくるのか身体で理解している部分があったのかも知れません。

良き事も悪しき事も、人にする事は自分にする事である事を忘れずに、腹は立てずに横にして生きて行きたいものですね(笑)

合掌

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