★人生交差点…ボルサリーノ

 
※社会通念上不適切な表現や描写がある事をお許し頂きたいと思います。
 
ボルサリーノ…言わずと知れたイタリアに本店を持つ高級帽子の老舗メーカーです。
 
軽快なピアノのメロディでも知られるこの映画は、フランスマルセイユを舞台に、二人の男が、裏社会でのし上がるサクセスストーリーを描いたものでした。
私がこの映画を初めて見たのは、中学生の頃、当時、水野晴郎が司会していた水曜ロードショーだったと記憶しています。
 
中学生の頃は番長などと意気がっていた私にとって、アラン・ドロン演じるシフレディと、ジャン・ポール・ベルモント演じるカペラの姿は何とも粋でスタイリッシュに見えたものでした。
 
当時は松田聖子がデビューし、横浜銀蝿の曲が、不良のたまり場には流れているそんな時代でした。
道交法改正により、一時期よりは下火になったものの、まだ暴走族全盛の頃でもあり、私が中学生の頃のワルガキ仲間と言えば、その頃より暴走族の集会に出ていた者も多く、卒業して一日も早く、400㏄の単車を買いたいばかりに、ガソリンスタンドでバイトしながら、定時制高校に通う事を夢見ていた者が多かったものです。
 
当時、一学年違うだけでコメツキバッタの様に地元の暴走族の先輩などに頭を下げる仲間の姿を、私はどこか苦々しいものとして見ていたのかも知れません…。
そんな私の中には『何が先輩だ、シンナーばかり吸ってる腰抜け共が、タイマンならいつでも上等だ!』と言う気持ちがあったのです。その上、群れて走る暴走族も私は嫌いで、当時改造したバイクに乗り、これみよがしにたまり場に現れ、卑屈に媚びを売る様に周りを囲む同級の仲間に、自分のチューニングした単車の自慢をする先輩の姿を見ても、私は挨拶もせずソッポを向いていたものでした(笑)
 
一度『先輩』と呼んでしまえば、根性の無い人間でも『先輩』と呼び続けなければならない、地元の不良のしがらみに縛られるのが嫌だった私は、中学卒業と共に地元を離れたのです。
 
学歴不問の極道世界への憧れと言うのは、すでにこの頃には芽生えていたのかも知れません。
自らに器量があれば、いい車に乗り、いい服を着て、いい女を抱き、気に入らぬ奴は蹴散らし、肩で風切って歩く様なアウトローへの憧れと言うもの…
 
極道当時、私の若い衆には中学校の同級生だったSと言う男がいました。
中学生の頃、私が番長で、そのSが副番、ワルガキ仲間の中で最も意気投合した人間でもあったのです。
喧嘩も強い男でしたが、どこかしら、非凡な頭のキレの良さを感じさせる人間でもありました。
 
そんな中学生の頃、Sとこのボルサリーノと言う映画について批評しあった事があったのです。
この映画のストーリーの様に、一介の街のチンピラが、裏社会でのし上がり、極上の帽子と言われたボルサリーノが似合うギャングにまでなったそのステータスに、自らを重ねる憧憬がそこにはあったのかも知れません。
 
『学校卒業したら俺達も何かやろうや!』と、その時に、私が暴力の部分を、彼がプランナーの役割を引き受けると言う、その後の長きにわたる関係が、お互いの中で暗黙の内に了解された瞬間だったのかも知れません。
 
中学卒業後、私は右翼団体に入り、鑑別所から少年院、少年刑務所を出所し、極道の世界へ飛び込んで行きます。
Sは高校に入学し、持ち前の喧嘩根性から一年生で番を張り、卒業後は総会屋の経営する会社に就職し、後に自分で車の中古車センターをオープンするに至ったのです。
 
Sは表向きは車屋でも、キリトリと呼ばれた債権取り立ての仕事や、企業や会社の不正などに絡む恐喝の材料を仕入れてきては、私に話しを振ってくるのでした。
 
仕事が仕上がれば利益を分け合い、祝杯をあげ、夜な夜な飲み明かし、若さもそこに重なり、楽しい時期でもありました。
このSには、昔遊び人だった父親がいたものですが、中学生の頃など、このSの家に遊びに行くと、Sの父親に木刀を突き付けられ『いいか、お前らまだガキなんだから、間違ってもヤクザと喧嘩なんかするんじゃねえぞ!』と説教されたものでしたが、情の厚い人で、Sと同様、私を実の子の様に可愛がってくれたものです。
 
28才で組名乗りを許された私は、地元に事務所を出したのでしたが、Sの父親が酒を飲んで酔っ払っては、よく私の事務所に遊びに来たもので、Sが車屋の経営に失敗し、膨大な借金を背負っている事や、Sやその母親、Sの妹、家族のすべてから自分が疎まれている寂しさを吐露するのでしたが、私もそうそうSの父親の愚痴を聞いている訳にも行かず、いつの間にか敬遠する様になっていたのです。
 
そしてある日、Sの父親は農薬を飲み、首を吊って死んでしまったのです…。
ちょっぴり早く私達に大人の世界を垣間見せてくれた大切な人を、思い出と共に私もSも失ったのでした。
 
その頃のSは私の企業舎弟の様な立場でしたが、私はSに、私の組の本部長として現役の極道に成る様に命じたのでした。
当時私には、服役歴のある私より年上の舎弟分などもいたものですが、本部長ともなれば、そうした人間も当然の如く使いこなす器量が求められます。
20才の若者でも、貫目(立場)が上であれば、親子ほど年の違う人間でも、『兄貴』なり『叔父貴・オジキ』と呼ばなければならない極道の世界でもあるのです。
 
でも…コップに注がれる水も器を超えるものは溢れ出てしまうもの…
Sとすれば、年長の人間や少年院や刑務所で懲役の経験のある、極道歴の長い人間の指揮を執る事にブレッシャーを感じている事や、組織からワンクッション置いた企業舎弟の立場で活動したい思いがある事は薄々わかっていましたが、私はあえて黙殺していたのです。
 
そこには自分の器量で乗り越えて行って欲しいと言う思いもあったのですが…大きな刺青を入れて少しは根性を見せるかと思えば、身体の不調を理由にいっこうに進まないSにもどかしさを感じ始めていた頃、やはり私の組の人間達の間でも、交渉事に於けるSの優柔不断とも思える姿勢を批判する声があがりはじめていたのでした。
 
そしてある日、Sは耐え切れぬ様に姿をくらまし、音信不通になったのです。
その時の私の気持ちと言えば、憎しみや怒り、寂しさ、あらゆるものが入り混じった様な、そんな気持ちでもありました。
 
でも、気持ちのどこかで何処の土地にいても、Sが元気でいたらそれでいいと思い、組から厳しく追い込みをかける(追っ手を向ける事)事はしなかったものですが、ある時、Sが私に詫びを入れたいと人を介して連絡があった事から、私の組の人間に身体を抑えられ、Sが私の前に引きずり出されてきたのです。
 
私の目の前で正座し、憔悴しきったSの表情を見た時『なんでこいつを極道の世界に引っ張り込んだのか?』『なんで器量にない事を俺はこいつにさせ様としていたのか?』と死んだSの父親の顔と共に、悔やまれたものです。
そして、その時Sを囲む私の組の人間達の殺気立った顔…
 
私が『このガキ!』と、一言発すれば、Sにヤキを入れ、指を取ってしまいかねない事は重々承知の私でもあったのです。
そこには…『オヤジの中学校の同級生と言うだけで、俺達の上に座りやがって、てめえどうケジメつけんだよ!』と、皮肉と嫉妬が入り混じった若い衆の感情と言うものもあったに違いありません。
 
また、それは同様に『オヤジ…あんたの同級生かなんか知らねえが、みろよこのザマじゃねえか!まさか無罪放免で解放するつもりじゃねえだろうなあ…どうこの沙汰を収めるつもりだい!』と、組の長である私にさえ向けられている声なき声でもあるのです。
 
アウトレイジな世界の暴力の現場とは、常にこうした矛盾するかの様な錯綜する感情に支配される場合も多い事、私が若い頃より垣間見て来た事でもあります。
 
実際私はこの時、具足円満にこの場からSを帰してやりたい一心だったのです。
次の瞬間…『こいつは堅気になるが、俺個人の仕事で使う、それでいいな!』と周りにいた私の組の人間を睨みつけ、それで話しは決したのでしたが…
でもそれも、Sが堅気になった後で、私の組の人間から嫌がらせや、ていのいいタカリをさせない為の牽制として言っているだけで、Sを個人的に使うつもりなど実際は毛頭もなかったのです。
 
私は目の前で正座するSの姿を見た時、中学入学以来の約20年に及ぶ友情が潰えて行くものを感じ…
極道の論理で、親分、子分と言うヤクザの座布団に置き換え、友情をネジ曲げ変質させてしまった事を、誰でもなく、自分自身に突き付けられている様に思ったものです。
 
それからさらに数年後、私が極道世界から抜け出て、夜逃げ同様に都落ちしようとした時、それまで私が乗っていた車などを手早く処分し、裸同然になった私に金を握らせたのもこのSでした。
 
『オヤッサンお元気で…』と極道当時と変わらぬ物言いで、地元を離れる私を見送ってくれたSの姿…
中学の頃は共に柔道場で汗を流した事もある私とSでした。
学校の帰り道、むせる様な栗畑の酸っぱい香りの中、急な坂を自転車で駆け降りた事など何故か思い出されたものです。
 
中学生の頃『学校卒業したら俺達も何かやろうや!』と裏社会に夢を託したものが、無常を描き帰結した瞬間でもあったのです。
 
話しは変わりますが…
 
もうだいぶ前ですが、刑務所から出て堅気になろうと試行錯誤している人間から電話があり、『土方の現場ですが、会社に雇って貰えそうです!』とその明るい声に、嬉しさを隠せなかった私でした。 
この人間は現役の極道ではありませんでしたが、服役歴はトータルで10年以上もあり、出所時などは寂しさもあり、裏社会への懐古の情もあった様で、声を聞いていても、揺れるものを感じた時もあり、そんな時私は言ったものです。
 
『昔の列(昔の仲間の事)の事はもうどうでもいいじゃねえか…今度は捕まらない様にと、お前がどんだけベテを回そうが(ワル知恵を巡らす意味)どんなシステムを作りあげ様が、ワルサをしてメシを食べ様とお前が思っている内は、何一つ実を結ばないぞ!それでも一年や二年はいい思いも出来るかも知れないが、その後は塀の中に必ず逆戻りだ!お前も40を過ぎたのだから、ここいらで自分の人生歩けよ!』と…
 
日陰育ちの人間は、陽の当たる道を歩こうとする時、恐れを感じる時があるものです。
でも、たとえ手探りでも歩いて行く時、道は示されて行くもの…
そんな時のこちらから向こうへの橋渡しのお手伝いも、私のミッションの一つかなと思う今日この頃であります。
 
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