★人生交差点…撃鉄と緋色の花①

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※社会通念上不適切な表現や描写がある事をお許し頂きたいと思います。

「おはようさんです!○○さん久しぶりでんな、景気どないだっか?」

「ああ、○○さん、ごくろうさんです!ほんま久しぶりでんな!最近叔父さんの機嫌どないですか?」

「ま、あんじょうぼちぼちとやってますわ」

「そらあんさん、うちのオッサンときたら朝からヤマ悪くてやね、ワシラ朝から怒鳴られっぱなしですわ、ほんままいりまっせ!」と…

極道の社交辞令とも思える挨拶と共に、次々と都内にあるホテルのラウンジをコワモテの一団が埋めつくしていったものです。
そんな周囲で交わされる挨拶や短いやり取りの中にも、ヤクザ社会の一つの時代が終わり、新しい体制に於いて、自分の信じ従う親分が、大組織の中で昇進する事を疑わぬ凱旋するかの様な響きさえある様に聞こえたもので…
そんな光景を、私はまるで宴会で追従するかの様に続く、人のお流れ頂戴を見ている様な、どこかしら冷めた目で眺めていたものです。

時は昭和天皇が崩御し、ブッチホンのニックネームで親しまれた小渕首相が平成の年号をTVの画面にかざしたその年でもありました。

※叔父(おじ)さんとは、自分の所属する組織の組長と兄弟分にあたる他の組織の総長や組長を呼ぶ際の称号

※関西では自分の親分を親しみを込めて陰で「オッサン」と呼ぶ傾向がありました。「ヤマが悪い」とは機嫌が悪い事を意味する隠語

私が座るホテルのラウンジの周りを固めるは同じ内輪関係(同じ「大組織」の系列下にある他の組の人間)ばかり、私などはまだ当時は枝の子(えだのこ)と呼ばれた4次団体の組員に過ぎませんでしたが、周りに座る面々は直径組織の執行部や幹部、組長秘書など、自らも地元へ帰れば「親分」と呼ばれる貫禄十分なその世界の猛者達でもありました。

そんな人達からすれば、年の若い私などは、どこぞの組の付き人のはしっこに連なる若い衆の姿にしか映らなかったに違いありません。私が控える奥にはこの館内にある高級中華料理店につながる廊下が明るい色の絨毯と共に伸びていました。
私は自分が座る席から、ラウンジと空間を仕切る様に伸びる廊下の先にある中華料理店から聞こえるかすかな談笑にさえ聞き耳を立てていたものです。

奥の中華料理店には長期に及んだ抗争終結の話し合いに向けて極道世界の重鎮や長老、その世界のスターの如き親分衆が会食している事を重々承知の上で、本来なら四次団体の組員にしか過ぎない私などとは、貫目(かんめ、貫禄、立場)の違う組長クラスの人間達が、食事を終えて出てくるであろう自分の親分を待つ席に於いて、あつかましくも、もっとも中華料理店に近い席に早くより座っていたものです。

極道社会を二分するかの様な大組織を二つに割っての約5年にも及ぶ大抗争も、水面下で終結に向かって大きく動きだしていました。

私が所属していた組織を除いては…

周りに座る人間達も、同じ大組織傘下の系列下にある「建前は身内」であり、黙礼されれば黙礼で返して、いかにもどこかの組の付き人の若者風情を装おっていた私でした。

このホテルのラウンジに入る前日、それまで抗争の指揮をしていた上部団体の若頭(死去)は私に「いいか、もし、奥から(ホテルの中華料理店)本部の親分の怒鳴る声が聞こえた時は、自分(私の事)な、店の中に入って遠慮いらんから○を殺れ…倒れたら馬乗りになってでも頭に一発入れてとどめをさせよ、あのガキども、絵をかきやがって、本部の親分をないがしろにしてハメルつもりでいやがる、今の親分の功績と力なら、身内を殺したところで後で理屈をつけて本家で押しきれるさ、親分が怒鳴りあいの喧嘩になった時は自分きっちり頼むぞ…」と言ってきたもので、それに対して「ええ…わかってますよカシラ(若頭)」と答えた私だったのです。

私が所属していた組の最上部団体の組長は、射殺された大組織の頂点である組長の実弟(死去)であり、殺された大組織の当代の出身母体の組である事から、ヒットマンとして、敵対組織の幹部などを射殺し、何人もの人間が長期受刑へ下獄している組(現在解散)でもありました。
自らの実兄でもあり、大組織のナンバー1でもある組長を殺られた事から、その攻勢は執拗を極め、抗争の終盤には、サブマシンガンや手榴弾などの重火器までが使用され、袂を分かち分裂した敵対組織は、瓦解の一途を辿っていったのです。

でも、極道の世界も雲の上では、抗争終結後の平和を見越した座布団(組織内に於ける立場や役職)を巡る水面下の綱引きとでも言うべき、政治や暗闘があるであろう事は、若い私にも薄々理解出来る事でもありました。

でも、ヤクザはついた人間がすべて…
明日の組織の趨勢よりも、盃を貰った親分や兄貴分への今の忠誠が問われる世界でもあった様な気がします。

若い私は、権力をめぐる老獪な政治などよりも、力を信じ、自らが撃鉄であり、引き金であり、的に向かって純粋な直線を描く鉛の玉(銃弾)であればいいと思っていたものです。
諸行無常の響きあり…でも、そのかたわらでは、極道の筋を貫徹するかの様に、徹底抗戦を叫ぶこの親分が、組織の論理から閉め出され、憂き目を見る時がくる様な、儚い感覚もどこかしらにあったものです。
その後実際にこの組は大組織より分離し、犠牲者を出すなど大組織の熾烈な攻勢に晒されたのです。それはまるで、大きく向こうに揺らした振り子がこちらに返ってくる様に…

この大抗争の発端となった大組織の組長、若頭、ボディーガード役の組長が敵の放つヒットマンに射殺されたニュースを、私は特別少年院の独房から流れるラジオ放送で聞いたのです。

その時私はまだ右翼団体の人間だったものですが、特少を出院後間もなく、今度は舎弟分と共に悪徳建設会社に乗り込み、舎弟分に用意させたバケツに並々と入った糞尿を、これまたバケツに頭から逆さまに入れた生きた鶏と共にぶちまけ、ガムテープをグルグル巻きにしたダイナマイトに模した発煙筒を「ダイナマイトじゃ、それ喰らえ!」と投げ込んだのでした。

建設会社の床に独特の臭気と共にみるみる版図を拡げるかの様な糞尿と、モクモクと煙りをあげる発煙筒をダイナマイトと信じ、「きゃーっ!助けて~!!」と、いっせいに逃げまどう事務員の姿をよそに、頭から糞尿まみれになった二羽の鶏は「コケッ、コケッ、コッ、コッ、コ~ッ!」と書類の置かれるデスクといわず、床といわず、会社の中を跳ね回って行ったものです。

その後で私と舎弟分は警察に自首したものでしたが、取り調べの過程で私が糞尿をまき散らしたその会社は、その酷い臭気の為に一週間以上業務を再開できなかったそうで、今思えば若気の至りでその時会社にいた事務員の方などに恐くも臭い思いをさせ(笑)済まぬ事をしたとも思いますが、当時の私とすれば、悪童がいたずらを咎められて舌を出して頭をかくに等しい、まったく懲りるところなどない人間だったに違いないのです。

短い刑期を終えて出所後、私が所属していた組織は右翼から極道へと変貌しており、元々が任侠系右翼団体に所属していた私にとって、何ら抵抗を感じるものも無く、むしろ水を得た魚の様にその世界に身を投じていったのでした。

私と一緒に糞尿を建設会社にバラまいた舎弟分は、少年で初犯だった為、鑑別所から保護観察で出た後、刑務所から出所する私を待っていたものでしたが、右翼からヤクザへと組織が変貌する中で、私はこの舎弟分の裏社会で生きる根性を試すかの様に、一緒に刺青を入れる事を半ば強要する様に話しを向けると「いや…兄貴、入れ墨だけは勘弁してください…」と歯切れの悪い返事が返ってきたもので、私とすればどこかしら親思いな優しさを感じさせるこの舎弟分が、ヤクザで生きる事へ迷いが生じているものを嗅ぎとっていた矢先の事でもあり、裏切られた様な気持ちになり、電話でブキチレ怒鳴り付けたのが最後、この若者は音信不通となり、私の前から姿を消したのです。

その後も信じていた人間が忽然と姿を消す様な薄氷を踏む様な人との出会いや別れを繰り返して行った私…

そこにどれほどの己の傲慢さが介在していたのか、人を押し潰すかの様な狭量で性急に結果を求めるエゴがあった事に気付くのは、これからはるか後の事だったのです…。

その後、この舎弟分だった若者が、地方の青果店で働いている事などを人づてに聞いた時は、人懐っこい笑顔のこの若者の顔が思い出され、何故かホッとした様な、胸に暖かいものを感じた私でもありました。

合掌 つづく

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