☆パトロンとお水の麗人に見た赦しのレッスンとは?

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※社会通念上、不適切な表現や描写がある事をお許し頂きたいと思います。

極道当時に見てきた様な地獄の沙汰からヒーラーとしてセッション時にお聞きする事の多い乙女の悩みまで…
そこにあるのは人が絡む「赦しのレッスン」の側面がある事を痛感させられる時があります。

病気や事故など、物理的変化を伴う事でさえも、癒されるべき人間関係がある事を(例え相手が故人となっていても)サインの様に浮上させている時があるものです。

成功哲学も良し、引き寄せの法則も良し、自己実現も良し、大いに楽しみエンジョイするのも良いと思います。

でも、それを「夢として楽しんでいるんだ」と心のどこかで理解出来ていたならそれは尚更に見事でもあります。何故ならそれらの事は、諸行無常、いずれは形を変えていってしまうものでもあるからです。

お金のカルマが良い様に巡っている時は放って置いても金が流れ込んでくる、順風満帆、人生の華の時期と言うものもあるのかも知れません。ところが、ある時より仕事や事業が斜陽を描き始めた時、それまでは「私は金には執着ありませんから」「子供の為には財産など残せばかえって為にならないので私の代で使いきるつもりですよワッハッハ!」など、金銭に頓着しない剛毅な態さえ見せていた人間の人生にも、破産に引導する様な魔弾の射手、伏兵も現れるもので、金に執着しないなどとんでもない、「お前に飲み食いさせた金まで返せ!」と側で聞いてるこちらが見苦しさを感じる様な事まで平気で言う様になり、アイツには貸した金が数千万あると、当時極道だった私の元に相手への報復を兼ねて借金の取り立てに頼みに来る様な人間もいたものです。

相手から借金を取り立て、取った金の半分(折半、取り半)を届けたところで、この人間の怒りと言うものが、更なる破綻の状況を連鎖させ自らを追い込んでおり、火消しなどになるはずもなく、最後は持ち家から車までを処分し音信不通の果てに消えてしまったものです。

また、手切れとなった綺麗な女性に与えたマンションから車、宝石、貴金属、時計、ブランド物の洋服、揚げ句の果てはその女性の店(クラブ等)で使った飲食費までを逆算し、嫌がらせ同様に取り立てる相手に、女性もしたたかに応戦するもので(笑)女性側から当時極道だった私に仲裁に入って欲しいと頼まれる様な時もあり、そんな相手を目の前にして「コラ、オッサン、自分の器量で女に良かれと思ってマンション買ったり車を買ってやったりしたんやろがい、女に百パー(%)やったつもりだから名義も女の名前にしたんと違うのか?それを縁が切れたからって返せとはどういうこっちゃ、それに女に飲み食いさせた分を金で返せ言うんなら、アンタな、これから糞尿処理場へ行って女の糞をかぎ分けて持ってこいや、チマチマチマチマ別れた女のところに無言電話一日に百辺もかけてきやがってこのバカタレが、ほんとに男の風上にも置けん様な外道やのワレ!」と…
(当時はこんな話し方でしたf(^ー^;))

男にすれば理不尽極まりない理屈さえ付けて脅しあげて二度と女性の元に行かない、連絡しない旨を約束させてしまうのでしたが、話がついたことから女性に「お陰さまで相手の男から嫌がらせは止みました」とこちらへの感謝の言葉は丁寧ではあります。でも、さすが男からやらずぶったくりの様に得たものは返さぬ剛の女性、私への報酬も自分の状況が大変な事をさも申し訳なさそうに並べ立て、手渡された封筒の薄い事には思わず笑いさえ出てしまったものです。

でも、この女性もその後新しいパトロンに捨てられ、大病を患い波乱を描いた事なども風の噂で耳に入ってきたもので…
「やられたらやり返せ』の報復が原理の極道の世界にあっては、物事に於いて相手の反応を読み込む様な習性もあったものですが、そこに特別な宗教観があった訳ではありません。でも、因果応報とヤクザの「返し」とは軌を一にしている様なところもあり、そんな油断ならぬ世界に生きていると、人の争いの顛末など、その後、その人間が人生に描くであろう稜線を漠然とながら感じてしまう様な時もあったものです。

またこの男にしても、世間でよく見られる愛憎劇の様ではあっても、今思えば歳の差がある女性に入れ込んだ自分の純情…女性に新しい男の影を感じ(実際そうだった)日増しに女性が自分からフェイドアウトして行く寂しさや、間男に女を寝とられた嫉妬ばかりが募り、アイディンティティを否定された恐れからの行動だった事が容易に推察できるものがあります。

儚さを気取る訳ではありませんが、どんな財を得ても、あの世と呼ばれる場所へは持って行くことは出来ません。
内面の充実、それは自分が何者だったのか?失敗したとか成功したとか、勝者だったとか敗者だったとかそんな事では無くてその時に自分が何を意図していたのか?自分も他者も(究極他者はいないと考えます)よく癒し赦してきたのか?ここだけが問われる様な気がしてなりません。葛藤を乗り越えて人を自分を赦す時、心に平安が訪れます。

平安などと言うと、宗教者の言う言葉の様で縁無きものを感じたり、成功や自己実現などと言う文字に慣れ親しんでいる方には地味にさえ聞こえるかも知れません。でも、心の平安、平和を得ると言う事がシンプルながらどれだけ大変な事かはきっとご理解頂けると思います。依存症を現すあらゆる行動パターンなどにもその裏に強い心の平安への渇望があったりするものです。

人間、気付きが進むと葛藤を乗り越えて赦しのスピードを上げて行くことは、自分自身を省みても納得出来るものがあります。

コンビニに陳列する商品の如く、手軽な愛が持て囃される現代ですが、赦せぬ相手も自らがスケープゴートしている魂の真理、私達人間誰しにもある課題「赦しのレッスン」を反映している事…それは部分的に燻りを残す世間にありふれた条件付きの許しではなく、相手がどんな攻撃的で醜態を晒そうとも、ワンネスと言う魂の兄弟である事を理解し、肉体を離れた本質の部分では何ら傷付けられる事も、傷付ける事も無い事を知り、親子、兄弟、夫婦、パートナー、友人、同僚、上司、後輩(ニュース番組等も)と自分の身近なエネルギースペースに現れる、時にはどう
にも手強い相手を赦して行くところにこそ、揺るがぬ恒常な愛は顔を覗かせる
様な気がしてならない愚僧であります。

合掌

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