ガン細胞が他の健康な細胞を攻撃し増殖して行く事はよく知られている事でもあります。
新聞やTVのニュースから提供される世の中と言うものを見渡してみれば、世界のあちこちで紛争からテロ、飢餓、疫病から津波やハリケーンなどの天災が起き、いっこうに世界平和など見いだせない様なカオスの世界を現出させているかの様でもあります。
国家としてのパワーゲーム、そこには大国同士の政治的な駆け引きや画策、利権の奪取などの思惑がうごめいている事など、情報社会の発達した今日では、明け透けに見え隠れするものがあっても…いつの時代も至極ごもっともな社会正義や大義名分がそこには用意され、関係諸国の恭順度さえ試すかの様に支持や同意を取り付け、他国へ介入し空爆や戦闘を始めるその様相は…
世界に見る戦闘にも、身体の中に発症するガンにも共通するものがある事、全てが一つとするワンネスと言うスピ語は、天使が福音の鐘を打ち鳴らす心地よい花畑ばかりでなく、阿鼻叫喚の地獄さえも包んでいるものに違いありません。
そのエネルギーの原型たるや、まるでイジメっ子が弱い子へのイジメを正当化する為に…
「だって、こいつ勉強が出来るからっていばってさ!先生にほめられたからって勘違いしてんじゃねえよ!お前ムカつくんだよ!」
「スカートめくられたくなきゃ赤い毛糸のパンツなんかはいてこなきゃいいじゃんか!女だからって泣いてんじゃねえよ!」
「こいつ、体育の時間、かけっこして転んだからって○○の事笑って『ぶじょく』したからいじめられて当たり前じゃん!先生に言いつけたらお前たちも泣かすからな!」
などと言う様な、子供の世界特有の理不尽さで、目くそが鼻くそを笑う様なへ理屈さえ持ち出し、周りにいる子供に踏み絵を踏ませるかの様に同意を求めるイジメっ子の論理、その姿…
戦争と子供のイジメでは全く次元が違うと思われる方も多いかも知れませんが、私などはその根には全く変わりがないものがある様に思えてなりません。
イジメや戦争と言うと、特殊な状況や世界を指す言葉の様に思う方も多いかも知れませんが、チビッコから大人まで、教育からスポーツ、政治や経済、軍隊に至るまで、その底流にあるのは競争や適者生存の論理であり、様々な美徳や企業理念でどれだけオブラートしても、そうした場には、子供のイジメにも等しいエネルギーが副作用の様に生じやすく、繊細な感性を持つ人間などはそれに耐えきれずに心や身体を病み、中には自ら命を断ってしまうケースなども年々増加の一途を辿っている事は、ここに書くまでもない事かも知れません。
私は小学生の頃や中学生の頃など柔道をしていた事もあり、武道による精神鍛練には素晴らしい一面もあるものと思っていますが、長年に渡り、打撃系の格闘技などをされた方が、礼節を重んじる武道ではあっても、「所詮は拳を用いて相手にダメージを与え、争い打ち倒す為の技を磨いているに過ぎないのではないか?」と言う矛盾に似た疑問が気持ちの中で湧き起こり、答えが出ぬままに武道を辞めてしまったお話しなどもお伺いする機会などもあったもので…
これなどもこの方ならではの感慨と言うものかも知れません。
でも、確かに、武道がある人間にとっては、打てば響く様に成長を促す働きを持つものであったとしても、その人に応じた気付きや学びの芽を育成する『それ』は、人それぞれ違ったものがあって当然であり、その多様性は尊重されなければならないものがある事など、私はスピリチュアルな道に進み、気付かされる事しきりだったものです。
でも、その一方で自己の真実に気付き生き方を大きくシフトさせて行く方が激増している平成の今であり、昔であれば10年かけて熟成された出来事も、今では1年から3年ほどで、ポジティブと思われる出来事も、ネガティブと思われる事象も、具象化のスピードをあげてその姿を顕にしている様な気がしてなりません。
そしてそれは世界や国内の動静ばかりでなく、医療や科学、産業からインターネットの世界的な普及に至るまで反映されている事は、平成に入り、それまでのボケベルに変わり現れた携帯電話の歴史一つとってみても明らかなものがあります。
今となっては時代を感じさせる、重くて大きいアナログの携帯電話が登場した時など、それさえも時代の先端を行く洗練されたフォルムに見えたものでしたが、屋外屋内に関わらず、電波の悪い場所などに行くとすぐに「プツッ、ツー、ツー、あれっ!?もしも~し!また切れたよ!」と言う具合に通話がすぐに途切れる事頻繁な上に、通話料金も当時は高く(笑)現在の高機能搭載、軽量コンパクトのアイホンやスマホ、タブレットなどの携帯端末機を、中学生くらいの子供がいとも簡単に歩きながら操作している姿などを見るとき、隔世の感をお持ちの方も多いのではないでしょうか?(笑)
話しが少々脱線しましたが…
世相から身近な出来事までをミクロにもマクロにも見る視点は今を生きる上でとても大切な様で、私はセッションをしていて思う事があるのですが、ガンなどの病気をお持ちの方の中には、考え方の中で凝り固まった部分などがお見受け出来る場合が多々あり、それは「こうあるべきだ!」と言う信念としてのものが強かったり、明らかに他者や外部の方達を否定拒絶する事によって、自分の見えざる心の奥底にある恐れや罪悪感を否認し、フェイクしているパターンなど、オーラやチャクラなど、その方のエネルギーレベルが正直に、その方の置かれている状況を、こちらに教えてくれるかの様な時があるものです。
ニキビや水虫はどうか知りませんが…(笑)
ガンなどの重篤と言われる病気は、スピリチュアルな意味さえ持ち、魂が身体を通して発するサインである事は間違いない様で、明らかにどこかの部分に否定や拒絶を経験し癒えていないものがある場合や、自分を偽り、無理に無理を重ね、抑圧をかけ続けた果てに限界点でガンが発症するなど、スピリチュアルなサインとしても完璧なものがある様です。
苦労があっても、愚痴をこぼさず寡黙に生き抜く人の姿を私達日本人は賞賛する傾向がありますが、ただそうした本人がどんな相克や心の闇を抱えていたかは、端から見ているだけではわからなかったりするもので、その方に現れる病気と言うものにこそ、その方の内面にあるものが見事に露にされているものを感じる時があるものです。
こうした事象を踏まえる時、『鉄人』の様な人間など本来誰一人としておらず、してはならぬ無理は必ず人生のどこかのポイントで、病気や事故となって現れる事、必然なものがあると言わざるを得ません。
ある時、私のブログを読んだと言う方が電話でセッションの申し込みをしてきた時があり、その方、最近原因不明のリウマチの様な差し込む腰の痛みに悩み、咳なども出ているとの事で、対面でのセッションをご希望だった様ですが、話していて感じるところがあり、「病院へ行きましたか?」と私が聞くと、「ええ…」とチョットの間を置いて返事をしたこの男性、実は数ヶ月前にある部位がガンであると診断されたものの、神道系の新興教団の熱心な信者でもあり、教団の幹部から「一心不乱に拝みをしていればガンなど消えてしまう」と言われた事を頑なに信じ、朝夕と祝詞を唱えているからガンなど消えているに違いないし、腰の痛みも自分自身の浄化がはじまっているに違いないからだと電話の向こうで私に言い張るのでしたが…
「でも、教団のお偉いさんが何と言おうと、あなた自身がガンでない事を本当に信じていますか?」と私はこの方に聞いたもので、するとこの方、私が耳にした事がない様な教団が祭る神道系の神々?の名前を出して、それらの神々の功徳にあやかっているからきっと私のガンも治っているに違いないと言うのでしたが、私はそれを否定せず「身体の痛みも大事なサインです。セッションの前に一度病院に行かれてよく見てもらうといい、セッションはそれからにしましょう。」と電話を置いたものでした。
それからしばらくして、この方より連絡が入り、病院に検査に行ったところ、腰の痛みは肺いっぱいに広がった進行性のガンのせいだったと語るこの方の声に力はありませんでした。
近日中に入院し手術をすると話すこの方、私に「手術もうまくいくかどうかさえわからないし、全部のガンは取れないと医者が脅かしやがるので、手術が成功する様に正仙さんに祈祷をお願いしたいと思いますので、病院に入る前に連絡します。それにしても親戚の奴ら、新興宗教なんかにハマるからバチがあたったんだなんて噂するのが耳に入ってきて、正仙さん、悔しくて死んでも死にきれないですよ」と話してくれたのが最後、その方からその後連絡が入る事はありませんでした。
ガンを否定し、恐れながらも自分に起きる訳がないと信じたいとする気持ちのままにいたずらに日を経過させる事は、本当は恐れ信じるガンの存在に力を与えてしまう事でもある様です。
ガンである事を認め見つめる事はショックに違いありませんが、全てをありのままに受け入れ、死を恐れる自分を赦し癒し、たとえ医師から余命宣告を受け様とも、生きて行くこの先の年月を数えあげるのをやめ、今この瞬間この時を時に楽しく、時に精一杯生きるんだ!と気持ちを切り替えた時、治癒と再生の土台が出来あがるのかも知れません。
ガンには両親、特に幼少時からの同性の親との関係が大きく起因している事もある様で、スピリチュアルな意味さえそこにある事を理解し、ガンになった時に、偽っていたり我慢に我慢を重ねていた自分から離れ、相手がどう思おうと、どの様なリアクションを取られ様とも、自分の真実を穏やかに告げる事が奇跡的な自己治癒に繋がるケースも多い様です。
私は父をガンで亡くしましたが、亡くなる直前など、病室のベッドに端座し、最後とも思える言葉を私に語りかけてきた姿など、今でも鮮明に覚えていますが、まさにあの世から今まいもどってきた様な全てが削ぎ落とされた様な姿で、当時はスピリチュアルな事など理解しない現役の極道の私でしたが、それでも後光が射すとはこう言う事かと思わせる様な父の姿だった記憶があります。
合掌