☆あてどなき「自分らしさ」とは?…エゴと聖霊の狭間に生きる私達人間・ヒーリング私記

 

混乱に陥った時など自己啓発などの世界でも言われる「自分らしく生きる」と言うワードが優しく心を和らげてくれる様に思える時があるものです。
 
「何者になろうとしなくてもいい」
 
「勝者になる必要もない」
 
「人と比べる必要はない」
 
「人から好かれる必要はない」
 
「自分の負の感情にもおおらかに」等々
 
どれも有効な事でもあります。
でも、拡大解釈が得意なエゴ(自我)はマインドに囁くものです。
「だから…自分勝手に人を傷付けるのだって貴方らしさ、感情の発露と言うもので、違うものになろうとする必要なんてないんだ、感情や自分の想いに正直に生きればそれでいいんだ」と、巧みにすり替えを行うものです。
 
自分のその時々の感情や想いを争いにならぬ様伝える事、またそれを伝える能力と云うものは私達がこの世界を生きる上でとても大切な事でもあります。でも、自分の感情や信念、自己を為している想いなどと云うものも陽炎の様にあてどなく儚く、自己の快適さを元にした身勝手なものだったり、親や影響ある人間からの刷り込みが元となっていたり、幼少期に受けた不当化の体験(イジメ等も)や恐れに対する防衛意識であったりと、何らかの「垢」はついているもので、中立に成り得ない代物でもそれはある様です。
 
ある時…子供との関係がギクシャクしてしまって心が騒いで落ち着きを得られないと仰る方のセッションをさせて頂いたものですが(ケースは変えてあります)その方自身も親から受けた厳しい教育、縛りが呪縛となってしまっている様で、親としての在り方、子供との接し方に於ても…
 
「世間体ばかりを気にする母親」
 
「自由を制限してくる本当は憎かった母親」
 
「兄や姉と自分を時にはあからさまに時には微妙に差別した母親」など、
 
大人になったら絶対に母の様な人間にはならぬと誓って社会に出たものの、大学を出た後で結婚し、いざ子を持つ母親になってみれば、自分自身がその実、抗う様な想いで家を出てからは疎遠一途だった「母そのもの」になってしまっている事が疑念の様に子供とのいさかいの度に感じられる様になり…でも、それを崩してしまえば親である自分のプライドも自尊心もなし崩しに失われる様な怖れに取りつかれてしまい、心身のバランスを崩したところで私のセッションを受けに訪れてくださったものですが、その人の姿に、私達人間誰しにもある仏教で言うところの「執着」アイデンティティーを失う怖れ、それを埋めるかの様に他者にコントロールを及ぼす事で安心を得ようとするエゴ(自我)の防衛システムを見せられている様でもあり、エゴのループに取り込まれてしまうと…
 
常に比較対象、裁きやジャッジ、非難や中傷、それが言葉にしろ雰囲気にしろ攻撃として表に押し出して行くもので、次から次へと干渉するパターンや逆に干渉されるパターンを周囲に作り上げ、心の平安などと言う境地とは遠いところへ自分自身を連れて行ってしまう傾向と言うものがある様です。
 
「子供をコントロール出来ると言う幻想は手放された方がいいのでは」と…
 
この方のセッションでもアドバイスさせて頂いた私でしたが…その後この方より、ケンカばかりしていた長女と丸一日と長い時間を取り、時には涙を流しながら抱擁しお互いサポートし合う事が出来たとご連絡を頂いたものです。
 
この方自身も母親の影響を受けていた部分があった事、そうしたフィルターを通して長女を見ていた事、また当然完璧ではない娘のエゴに対峠する時、嫌悪感さえ持っていた亡き母の自分を罵る時の口調や文句まで自分の中で呼び起こす様に投げつけている自分がいた事なども真摯に長女である女性に詫びた様で…
私に連絡をくださった時も「抗うもの、嫌いなものにこそなってしまう逆説の様な事を正仙さん話してくださいましたが、娘との関係で本当それを今回痛感しました」と話してくださったものです。
 
これは親子間の事ですが、人間と言うのは日々自分の思う様に行かず気持ちを建て直す様に「自分らしさ」に目を向ける時と言うのは実際は自分の中では精神的支柱として蓄積された良かった時の体験や上昇志向の時に採用していた信念体系であれ絶好調の時に口ずさんでいた歌謡曲のイントロであれ(笑)それが何であれ「過去ばかり見ている」わけであり、一時の気付け薬としての効能はそこにあっても、傲慢なエゴが温存されたままレッスンの機会がリターンされる場合があると言うのもまた真実の様です。
 
派手な転落を描く政治家や芸能人ばかりでなくこの娑婆に生きる人間誰しにも諸行無常(無情)の因果が人生に散りばめられている事は、人間、歳と共に嫌が上でも直面させられる事であり、サイキックや心霊能力に長けている人間でも身体の中にいる内は明日の命運は分からないと言うのが本当のところでもあるのです。
「分離意識」と呼ばれる全なる神から切り離されたと誤信する無意識下の罪悪感や狂気と言うものには途方もないものがあり、これこそが戦争や暴力、貧困から差別、病気やあらゆる不調和の源であり、成功してい様とも快楽を得ていても常に満たされぬ寂しさや飢餓感、報復される怖れを生み出す温床となっている事でもある様です。
 
肉体があり、リアルな知覚があるこの世界こそが全てと、言い換えるなら「肉体こそが全て」と私達人間に思い込ませたいのがエゴ(自我)であり、それは裏を返せば目の前に某と言う肉体が無ければ憎しみも悲しみも存在し得ない訳で、肉体の向こう永遠不滅のスピリット(霊魂)などに目を向けて欲しくないエゴの策略と言うものが、あらゆる人間ドラマに不調和や争い、飽食などに形を変えて現れている様です。
 
神の機嫌を損ねれば罰されると言う私達人間が長い間畏れてきた神の鋳型と言うものが今揺らぎ始めています。
戦争や暴力、天変地異や病気、貧困に至るまで神が時には試練を与え、時にはご褒美をくれる様にアメとムチを使いわけるそれが真の神の姿ならば、拳固と握手、微笑みと恐喝を使いわける「ギャングのボスとそれは何等変わらない」とはよく言わせて頂く事でもありますが、こうした暴力装置を兼ね備えた神のスタイルは権力者や為政者にとっては一般大衆をコントロールして行く上でも都合良く利用されてきた歴史が世界どの民族にもあり、私達が生きる日常に隅から隅まで張り巡らされた報奨と懲罰の鋳型や収奪のシステムにこれが投影象徴されているものさえあるのです。
 
だとしたら、そんな神のどこに信頼を置けるのでしょうか?
 
我々人間の片手落ちになりやすい制限された思考の範囲で考えても本来神と言うのは懲罰的要素を持たぬ圧倒的な善念、愛そのものではないのでしょうか?ここで言う愛とは「私がこれを貴方に与えるから私が必要とする貴方の持っているものも頂戴」と私達人間が慣れ親しんだ駆け引き込みの愛もどきとは違う事でもあります。
 
昔に比べれば人間の寿命が飛躍的に伸びている事は統計上も明らかですが、かと言って不老不死なわけではありません。目を奪う美しさも力強さも圧倒的な賞賛も時間と共に形を変えて行ってしまうものです。
人間の生を悲観的に見るとか現実を見ないとかネガティブだとかそんな事ではなく、この私達の生きる世界は赦しのレッスンを伴う諸行無常の幻想道場、体験型の劇場、形容は何であれ、大いなる神から切り離された罪悪感を(実際は片時も離れてなどいない)その人なりのバージョンで人生に浮上させ、赦しの姿勢で臨むのか?さらに報復や対立で分裂を繰り返して行くのか?刹那、刹那に問われる世界でもあり、それは誰しにもある神とのパイプ、内なる神であり教師、ハイアーセルフに生きる視点や視座を求めるのか?それとも人間のダイナミズムな欲求や価値判断そのままにエゴに従い生きて行くのか?と言う事でもある様です。
 
この世の生だけでなく、五百も千以上もあると言われる人間の輪廻転生も幻想や夢の陸続きと言うのが真実の様です。
 
※三途の川や花畑、故人との再会などで知られる日本の死後の世界と呼ばれるところも、次なる輪廻転生の間のこれも幻想、夢の陸続きである様です。世界各国に見られる死後の世界と呼ばれる場所もその国の民族観や宗教観を反映しているかの様で興味深いものがあります。
 
そこで問われているのはこの世で経験し目撃する事は私達が神から分離したと信ずる「エゴとの契約」に於いてこの世に生まれる前に自分で作り上げたイメージや脚本、台本通りの事を体験しているに他ならず、肉体レベルでみれば儚く脆く弱く流転著しい人間なれど、本当は何等傷付いたり失うものなどない神の一人子としてのスピリットである事を思い出す旅である事、またそれは感情をかき乱される出来事、人間関係を通しての赦しのレッスンを通してしか成就されるものではない様で、常にイメージ(人間関係もしかり)が自分に影響を及ぼしていると言う誘惑(怒り、嫉妬、怖れ等も)が真の自分に影響を及ぼすものではない事を体得するには日々の小さな動揺や葛藤には必ず人の影が伴う事を理解し、
 
そこに同調しエゴに引き込まれ心の安寧を失う分裂のドラマに引き込まれない為にもどんなに深刻さを伴いリアル感溢れる切迫したものであっても究極は自らに(他者にも)喪失だったり破綻をもたらす事は出来ぬイメージである事を真に理解する為にも赦しの姿勢で臨む事(当然肉体レベルでは被害を受ける事も)通り過ぎる人であれと言う事が肝要な様です。
 
勿論、人として「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかその場その時に必要と思われる所作は人間関係を円満にする為にも大切な方便でもあり、悲しみの最中にある人に「それは幻想だから泣く必要はない」などとデリカシーに欠けた事を言う様推奨するものなどでは決してありません。
 
そう言う意味に於いては神と言うのは私達の真の安全性を知っており、夢幻の如くなりの私達の生きる幻想世界に何らかの力を行使していないというのが真実の様です。
何故なら、影響を及ぼす事は悪夢を見てうなされる子供の夢を実在させるに等しい事から、それが神の怒りを感じさせる天変地異であろうが逆に後光輝くばかりの神の恩寵と思われる出来事であろうが一切関与していないと言うのは現在のニューエイジ、スピリチュアルリズム、多くの宗教観に合致しない事から受け入れ難く感じる人が多いに違いないのですが、私の様に過去に於いてヤクザ教とでも言うべき親分、子分の特殊世界、人の辛辣な欲望から地獄の沙汰まで眺めてきた人間にとっては全くもってこれが肌身に沁みる様に腑に落ちるものがあります。ただ迷える子羊の様に心の安寧を失いがちな私達をサポートする聖霊(ハイアーセルフ)の存在があり、奇跡や癒しと呼ぶ事象に於いてもこの聖霊が決断していると言うのが本当のところで(その人の信ずる神や仏、天使などのシンボルを通しても)自らのサイキックな能力に言及するヒーラーは多いものですが、ヒーリング一つとってみてもヒーラーに出来るのは聖霊の触媒、導管となるのが全てと言うのもこれまた真実で、自分は選ばれし者と特別性の幻想に酔いエゴの虜にならぬ様ヒーラー自身に注意が必要な事でもあるのです。
 
この文章を書いている当人はかつては赦しのレッスンどころか、居直り開き直り、揚げ足取りのレッスン(笑)に生きた修羅道の信奉者だった事から、それが言葉であれ実力行使であれ暴力に訴えたい誘惑にさらされた事…スピリチュアルな道に転身した当初などお試しの様に経験したもので、裏社会を離れた自分が無力になったかの様に思える「表のパワー」を追い求めた幻想の浄化の日々も続いたもので、それは一朝一夕で事足りるものでは到底ありませんでした。
 
肉体を持つ私達がこの世界を楽しくワクワクと謳歌していける事は素晴らしい事です。現にこの人間世界で生きる事は人との出会いから生じるたくさんの感動やご褒美が与えられるなどギフトの瞬間も用意されていたりもします。
霊的な気付きだとか悟りだとかスピリチュアルだとか神仏や天使などと言うものに無関心なまま、感情のままに欲求のままに生きるのも自由であり、それも一つの生き方と言えるものかも知れません。
でも…そんな人でも輪廻転生と言う壮大なトリップの中で赦しのレッスンを重ねてきた魂の兄弟であり、いずれ遊び慣れた玩具を手放す子供の様に輪廻を断ち、神の元に帰る学びを続ける生徒に違いないのです。
 
それを今生で成し遂げるのか?大きく進歩させるのか?はたまた輪廻転生し次回(来世)に持ち越すのかは私達の自由意思に任されているものがある様です。人生を自分が思い描くイメージ通りに引き寄せの法則を駆使して生きる事が出来たならどれだけ良い事でしょう。。でも、こうしたセルプヘルプの方法はつかの間のビキナーズラックの様な事象はもたらしても人生を変えるものでない事に多くの人が気付く時代にもなってきました。この世に生まれるかに見える前に「エゴとの契約」に於いて人生上の出来事、脚本や台本、シナリオはすでに書かれていると言う事、私達に出来るのは受け取り方、どこに視点、視座を求めるかで同じ出来事の中にも安寧と混乱、言い換えるなら聖霊(ハイアーセルフ)とエゴのどちらに委ね生きるかで全く違う人生の質感を体験する様です。
 
「私は霊的な事とかスピリチュアルとか宗教とか興味ないけど瞑想はします」と言う方がいたりもします。
確かにその方の理性の部分ではスピリチュアルも宗教も興味の他に違いないのです。でも、こうした事を言う人の場合、その人の深奥では、内なる神であり真我でもあるハイアーセルフとの繋がりを得て精神の平安を得たいと言う無意識下からの欲求がその真の動機である事に気付いていない場合が多いものです。
 
こんな事を言うと適者生存の世界を生き抜く親御さん達には異端に思われるかも知れませんが(笑)本当に世界平和や暴力、イジメや貧困の無い世界を構築しようと思ったなら、子供の時から学校などでも「真の意味で死は無い事や意識は途切れる事なく継続し続いて行く事、他者はおらず人にする事は自分にする事であると知る事、輪廻転生と言うトリップを続ける意味や私達をサポートする聖霊の存在など」を教える時間を正式科目として採用する事は必須であると思われ、いずれ未来の学校の教育体系の中で実現されて行く様な気もします。でも、これを成し遂げた日には世界観の大きな変更に迫られるものがあり、国家の在り方、政治から政府、経済から教育までの怒涛の如き解体変化が起きる事必定であり、闇の権力構造にことさら言及はしませんが、世界に富の収奪システムを敷いた権力者の足元を揺さぶる事態になる事は火を見るより明らかであり、多くの抵抗と時間が費やされる事も間違いの無いところでもある様です。
 
ある朝 ぼくはめざめて
そして知ったさ
この世につらい
悲しいことが
あるってことを
グリーン グリーン
青空には 雲がはしり
グリーン グリーン
丘の上には ララ 緑がさわぐ
 
これは私が子供の頃音楽の時間に他の生徒と共に歌った童謡「グリーングリーン」の一節ですが、音楽の先生が爽やかに弾くピアノの伴奏で歌ったものでした。でも、私などはその爽やかなメロディーとは裏腹に重たい気持ちでこの歌を歌ったもので、子供ながらに生や死の意味を突きつけられた様な思いになったもので、言い様の無い眠気さえ感じたものです。
 
真理を学ぶと言うのは時に心地よいばかりではないもので、真実が揺さぶるからこそ葛藤を生じさせるものがある事など、何故かこの童謡を歌った子供の頃の記憶に重ねた愚僧であります。
 
                      合掌

  

 

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