人生交差点…酔歌②

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※社会通念上、不適切な表現や描写がある事お許し頂きたいと思います。

先日ある聡明な女性からメールが届きました。
その中に、『仁義』と言う文字が書いてありました。

そこにはその女性が考えるところの人間関係を円滑にする為の知恵や処方とも思える微笑ましい『仁義』が書いてありました。

仁義…友達同士の仁義もあれば、会社間の仁義もあり、水商売に生きるお姐さん同士の仁義もあります。

儒教の教えにもあるこの仁義と言う言葉…私が過去に生きた極道の世界では殊更に口に出す人間もいなかった様に思います。

天照大神の軸装を中央に祀り、神道式の祭壇をしつらえて行う極道の親子の盃事と言うもの…子分となる人間は媒酌人よりその盃を飲み干す前に口上として言い渡される事があります。

正式な口上は忘れてしまいましたが…『子となられる方に申し上げます。その盃を飲み干せば、親子の関係が発生します。たとえ白い物でも親が黒と言えばそれは即ち黒です。 腹定まったなら、一気に飲み干し、懐中深くお収め下さい。』と一呼吸の後に盃を飲み干すのですが…

この媒酌人の言葉に、極道渡世の仁義(掟)の核たるものが集約されている様な気がします。

『一天、地六のサイの目を振って散らした親不孝…』と言うヤクザの小唄がありますが、生みの親の言う事を聞かぬ人間が、親分子分と言う、世間の社会概念から隔絶した片親の擬似家族に身を投じる瞬間でもあります。

盃を受ける前に媒酌人が祝い事でもある事から、酒を入れた素焼きの盃に、鯛の生魚に目、腹、尾の順に大きな箸の先で軽く突いた箸先を入れて混ぜる所作があるのですが、生臭くなる事からか…

実際には鯛に箸を触れる事なく、所作としてだけ行う場合がその殆どな様ですが…

私が若き日に盃を受けた時などは、媒酌人の方がしっかりと箸で鯛を突いた為か、飲み干した盃の酒が生臭く苦くしょっぱかった思い出があります(笑)

本来は、この生臭い味のする盃を飲み干す事にも意味がある様で、それは、その生臭い酒に清濁合わせ呑む事の意味を知り、今日の日を忘れる事なかれと言うものなのかも知れません。

この時の媒酌人をしてくれた方は、当時組の舎弟頭(組長の舎弟分の筆頭)でもありましたが、その後組は解散し、すでに高齢でもあったその方は、堅気になったところで身の置き場もなく、たった一人の息子さんご夫婦に、世話になりたい旨の手紙を出したのですが…

『あなたを親と思った事はありません…金輪際手紙など寄越さないで下さい!』とけんもほろろな息子さんの断りの文章に『何十年もほったらかしとったワシが悪いんや…』と、自らを嘲るかの様な笑みと共に、その手紙を私に見せてくれたものです…。

この方は若い頃に、極道同士の喧嘩で殺人による長期の服役の経験もあり、とうの昔に家族の絆は失われていたのかも知れません…

しかしながら、組が解散し、裸になった高齢の人間にとって、残り少ない人生を血の繋がった家族と共に過ごしたいと思うのも人情…どれだけ無頼に生きても、破天荒に生きても、家族の姿は瞼の裏にあったに違いありません…。

しかし地道に生きてきた子供にとっては、モンスターと化した父親の姿…忌まわしい払拭したい過去以外の何物でもなく、その手紙からは閉ざした思いが感じられるばかり…

組が解散し、他の組に移籍する者、堅気になる者、それぞれの出処進退も決まった別れ際『ワシの極道生命も尽きた…ヤクザの末路はこんなもんや…どこかで野垂れ死にするも良し…けどアンタは若いんや、どうとでもやって行ける…もうお互い会う事もないか知れんが、元気で頑張って行ってや!』と差し出すその手を握り返した私でしたが、その手の平が伝える冷たさや皴の多さに…一人の年老いた極道の寂しい末路を見るかの様な想いでもありました。

絆と言うもの…前の記事にも書いた様に、部屋住みの頃などと言うものは、親分から気安く声など掛けてもらえるものではありません…でもそうした時期の中にも、

『オイ!チョット肩揉んでくれや!』

『はい!』

『お前散々親不孝して来たんだからしっかり揉めよ!笑』

あせるは、はい!』

『おう!まあまあ上手いやないか!笑』

あせるありがとうございます!』

一般の方から見れば、取るに足らぬこんなやり取りの中にも修行中の若者にとっては、無上の喜びを感じたりする瞬間でもあります。

私なども親分と呼ばれる方の自宅に部屋住みした時もありましたが、掃除洗濯はもちろん、親分の下着までアイロンをかける几帳面さを発揮し、
(^_^;)

あせるオイ!パンツまでアイロンかけんでいいんだぞ!笑』などとよく言われたものでした…笑
(^^)\(゜゜)

部屋住みを終えて、一人前の極道として、自分でメシを食べて行く様になった時…組織の難時を解決した時などに…

親分から『お前にばかりえらい思い(大変なつらい思い)をさせたなあ…』と声をかけられる時…

親分と共に随行し、表より事務所に帰って来た時など、たまたま炊飯器に茶碗一杯分のご飯しか無い時に、当然、親分と呼ばれる人が先に箸を付けるも…『お前も腹減ったやろ、はよ食べんか!』と声を掛けてくれる先にある半膳残してあるその茶碗を見る時…

『この人の為やったら…』と

それまでどんなに辛い事があっても、たったひとつの言葉に報われたものを感じ、それを心の宝に、組織の為に身体を賭けて行くのも極道なのかも知れません…。

『士は己を知る者の為に死す』と言う言葉がありますが、それは、一般の企業であろうとも、極道の世界であろうとも一緒の様な気がします。

そうした見えない部分を汲み取る感性や心の襞と言うもの…そうした心の琴線を持つ純粋な人間が、その世界にはたくさんいた様な気がします。

私は極道社会を礼賛するつもりはありません…。
当時の見たまま感じたまま…それは是非を問うものでもありませんが…ただ、それがどんな世界であろうとも、そこに生きているのは、血の通った人間である事を感じて頂ければ幸いです。

合掌つづく

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