昨日東京はここ数日の天気の悪さが嘘の様に晴れ渡り、気持ちの良い一日を過ごす事が出来ました。
昨日八日は、ブッダ(お釈迦様)の誕生日
全国の多くのお寺で、お釈迦様の誕生日を祝う、降誕会や潅仏会、花まつり等が催され、晴天と相まって多くの参拝者で賑わったに違いありません。
ブッダは、ゴータマ・シッダールタとして釈迦一族の王子として生まれ…
自らの王位や妻子を捨て出家し、苦行の旅に出た事はよく知られている事でもあります。
真言密教では大日如来の具現化としての釈迦観と言うもの
釈迦は大日如来の変化身としての位置付けがされています。
その釈迦が感得した宇宙感を見事に日本で体現したのが、弘法大師空海かも知れません。
釈迦は原始仏教教団の中心であり、釈迦を慕い集まる弟子たちに対しては、教え諭す事はあっても
自らが教団の統治者でない事をハッキリ明言していたと言います。
釈迦の没後、南アジア(スリランカ)等へ南伝仏教として広まる一方では
中国から大乗仏教として日本に系譜された北伝仏教に別れ、歴史の紆余曲折、時には分裂を繰り返しながら現在に至っています。
日本の仏教に視点を転じても、顕教、密教と多くの宗派に分かれ、説く内容も別々で各統率者がいるなど
釈迦の時代のものとは全く別種のものと化しているのかも知れません。
釈迦の没後、弟子達が長い年月をかけて、釈迦の教えや残した言葉を編纂して、後世の人に伝えていった聖典や教説、例えばよく知られている『八正道』などは、現代でも、人間が生きて行く上での素晴らしい知恵に溢れています。
僧侶をしている私がこんな事を言うのはおかしく思われるかも知れませんが…
私は釈迦が残した教えや修道のカリキュラムよりも
等身大の人間『ブッダ』に深い共感を覚えたりもします。
『ブッダ』とは『覚醒した者』を意味します。
ブッダが、王位や妻子を捨て旅に出たのは、悟りへの霊感とでもいうべきものに導かれたから?
ただそれだけだったのでしょうか?
私はブッダが、それまで住み慣れた城を離れ世俗を捨て旅に出た時に、もうこれ以上ここにいても(王族としての生活)真の自分を表現出来ないという…
現代で生きる私達が、その人生の中で経験する等身大の人間としての悲しみやフラストレーションさえそこに感じたりもします。
ブッダは聖人であり聖者だったかも知れませんが、私の中では圧倒的な人間智に溢れた賢者のイメージが強いのです。
ブッダの没後二千年が経つ中で、その物語は脚色された部分、奇跡や霊験談や神を取り込んで大きくなりつづけた部分もあるのかも知れません。
ブッダは自分が神だと言う事もなければ、自らが起こした奇跡についても語る事もせず、人々から崇められることにも関心がなかったと云います。
何度も師に付き、瞑想や真理の教えを乞いますが、誰一人としてブッダの求めるものに答えの出せる師はおらず
自らを死さえも超越する様な苦行に駆り立てて行きます。
しかしそこにもただ死への誘惑にかられるばかりの自分を感じ…
深い疲労と絶望さえも感じたのかも知れません。
人間の限界を超える苦行を重ねてきた自分を嘲笑った瞬間も訪れたのかも知れません。
でも、自分のして来た事が無に帰したと知り、全てを放り投げる様に自分の中で手放したその刹那…
空が、宇宙が、水が、空気が、木々の葉の一枚一枚が全てがひとつである事を…
宇宙の真理、今時のニューエイジの言葉で言えば、『ワンネス』とても言うべきものを身体の全細胞て受けとったのではないでしょうか…
ブッダは「一切の神仏を礼拝してはならない」と言ったとも言われています。
現代の日本仏教に照らして見て、その開祖としてこれほど矛盾している言葉はないのかも知れません。
ただ、ブッダは知っていたに違いありません。
神仏を礼拝する時に神が『それ』や『あれ』になってしまう危うさがある事を…
他の神を差別する人間の弱さを…
いたずらにそこに依存してしまい、他に神を見いだせなくなる人間の脆さを…
そしてなによりも美しい自分の内なる神に目が向かなくなる事を…
私達は家族や愛する人達や、他者に対する愛情と云うものは、大きく、時には微妙に区別し、そのスタンスや角度を変えている事に気付かなかったりもしますが、
ブッダ人は、貧富の差や職業の貴賎などに影響を受ける事なく、誰に対しても同じ愛情、同じ愛の波動で接していたに違いないのです。
私の様な凡俗の極みが偉大な求道者であるブッダの事を語る資格はないのかも知れませんが…
しかし私はブッダという聖人として後世に名を残し、真理を極めたマスターが、我々と同じ生身の人間でありながら、悟りを得て心を完成させたその足跡を見る時、
我々となんら変わらぬ、人間的な弱い心の声にさえ時には葛藤を感じながらも、ついには乗り越え悟りにいたったそのプロセスを思う時…
全ての人がそれぞれの立つ場所からブッダ『覚醒した者』になり得る可能性のある事を、二千五百年の悠久の時さえも超えて、ブッダが優しく示唆してきている様に思えてなりません。
苦行に生きる事の必要のない事を悟ったブッダは、苦行や快楽のどちらにも偏らない『中道』と言う生き方を説き始めます。
現代風の言葉を借りて言えばバランス感覚の良い生き方をする事とも言えます。
私は過去世でも、行者や僧侶だった時も多かった様で…
戒律の厳しい環境を好み、荒行や苦行や修業に価値を見出だしていた様です。
しかしながら本当の宇宙の真理、神の愛を知る事は出来なかったに違いありません。
「神とはなんだ!」「仏とはなんだ!」とその思いを神に叩きつけて、私は何度となく輪廻転生の輪の中で生まれ変わって来た様な気がするのです。
そうした思いが今世でも長い間、極道の世界で生きて来た事にも現れているのかも知れません。
ブッダが説いた神への愛は日常至るところに遍満しています。
愛する人の安らかな寝顔を見つめる時に…
子供をお風呂に入れシ
ャンプーしてあげた時に湧き上がる至福感の中に…
ご高齢の夫婦がリュックサックを背負い、仲良く手をつなぎ旅にでる姿を見た時に感じる微笑ましさの中に…
私達はそうした時、神の目線で対象を見ているのではないでしょうか?
補助輪を外し何度も転びながらも自転車に乗れる様になった子供を見る時…
そこに小さなブッダの姿を見る事は出来ないでしょうか?
往った者よ 往った者よ
彼岸に往った者よ
彼岸に完全に往った者よ
悟りに幸いあれ
ここに智慧の心の完成を終わる
『般若心経』より
合掌