観音様は充分な徳がありながら如来に成る事を拒み、その人に応じた姿に形を変え、衆生救済の為この娑婆にとどまっていてくださると言われています。
密教行者の中には観音菩薩の姿を模範に悟りや解脱(輪廻を断つ)を成就させる事無く、迷妄にある人を救う為、何度となく輪廻転生し菩薩行に励むべきと持論を展開する方もいたりする様です。
でも、
来世があるものとして、輪廻転生してこの娑婆に再び生まれ出でた時に(他の惑星へ転生する事も)果たして僧侶として生きる人生を選び取る事が可能なのでしょうか?
だいたいにして前世の記憶など断片的に思い出す事はあっても(個人差あり)記憶からすっぽり抜け落ちるかの様に生まれてくるのが普通であり、性別や国籍はもちろん、選び取る仕事、親や兄弟姉妹、配偶者、寿命に至るまで、前世の因果から業(カルマ)の中に書かれたものがあるのだろうと理解するのが精いっぱいであります。
それどころか、
今生では世間の風評高く、炎の行者の如く高僧の誉れ高く菩薩行に邁進したつもりであっても、死後再び輪廻に引き寄せられた来世では、あっけなく袈裟がエプロンに代わって、
モンペットクワ(もんぺと鍬)なんて発音する(笑)フランスのどこかの地方で暮らすおばさんとしての生涯が待っているやも知れず(笑)それは我々人間がコントロールを及ぼす事の出来る事では到底無いはずです。
ただ、因果法則の見地から言えば、その人間の内面世界は持ち越され、来世でも投影されて行く事は必至であると思われ、その実、前世の自分では『菩薩行と思っていた過干渉のパターン』が強いカルマとして再現され、無力感や離反を体験するなど、とんでも無い赦しのレッスンに向き合わされるのも一切皆苦、諸行無常の我々の生きる世界の真実というものかも知れません。
宗教を含めた信念体系の美辞麗句など、輪廻の上では何の役にも立たず、外見や性別、容姿、貧富のレベルなども同様に、人間の霊性、気付きのレベル、簡単に言えば内面の果実だけが持ち越されて行くと知る時、自ずと世界に押し出される自らの心の有り様が問われるのであり、『意図する事はエネルギー』と知り、欲望のままに安易に流れるパターン(依存症に発展)や自我の攻撃とも言うべき感情に噛みつかれ執着や争いを生じさせるパターンから逃れる為の仏教に於ける八正道の実践や瞑想他、その人なりの心の訓練が大切な事は言うまでもありません。
合掌