☆相撲のアウトレイジ…横綱のエゴ、協会のエゴ

 

 
 
連日報道されている、相撲の世界の不祥事や内紛を指して「相撲のアウトレイジ」とスッパ抜く週刊誌のタイトルがありました。
 
なるほど…今の相撲の世界をアウトレイジとするなら、先日相撲協会の理事を解任された貴乃花親方など、お偉様が列席する理事会で、皆が緊張して背にもたれる事なく座っているところを、一人口をへの字に曲げて椅子にふんぞり返って座っているそのさまは、ヤクザで言えば、組織の決定に反発し、執行部に一人楯突く、武闘派の若頭補佐といった風情でもあります。
 
理事会で執行部を前に椅子に深々と座り、頑なな貴乃花親方の表情には、昭和から平成にかけて相撲界を牽引してきた大横綱としての「指図は受けない」と言わんはわかりのプライドや矜持も窺えたものです。
 
八角理事長(元横綱北勝海)他、相撲協会の執行部は、巡業部長である貴乃花が地方巡業中に発生した事(日馬富士による貴ノ岩への暴力事件)にも関わらず、協会に報告せず警察に独断で告訴した事を職務怠慢として理事解任の制裁を課していますが…
 
これなどもよく考えると「郷に入らば郷に従え」的な村社会のしきたり、派閥論理を法よりも優先させろと慇懃無礼に表明している事に他ならぬものがあります。
 
騒動の渦中の相撲協会から発されているエネルギーと言うものは、少しアウトレイジ風な物の言い方で例えるなら…
 
「馬鹿野郎が、貴乃花の外道め…
何年相撲でメシ食ってやがるんだ、あのボケが、てめえだけいい子になりやがって、
 
ここ最近の八百長疑惑から暴行事件でただでさえ相撲離れに拍車がかかり、気を使ってる時に、俺達をないがしろにしてサツタレ(警察へ通報)しやがって、看板力士の白鵬まで共犯でしょっぴかれた日にはどうするんだ馬鹿野郎が、理事の座布団に座ってるくせしやがって、とんだオマンマの食い上げになる事があの唐変木にはわからんのだ!
 
「モンゴル互助会」がどうしたと言うのか、好きにやらせとかなきゃしょうがねえじゃねえか、あいつらで今の相撲も成り立っているんだから好きに踊らせておけゃいいものを(八百長含め)あの馬鹿ときたら、まだ懲りずに何かしかけてくるつもりでいやがる…
 
伊勢ヶ濱(元横綱旭富士、引退した日馬富士の親方)も可哀想で仕方ねえや、あんな不出来な親方(貴乃花)の弟子に日馬富士がヤキを入れたのも当然だ、日馬富士は俺達には従順で気の利いたいい若い衆だっものを、あの馬鹿のお陰で、詰め腹切らせるハメになっちまった…。
 
世間の手前、伊勢ヶ濱には理事を降りてもらったが、それにも懲りずあの馬鹿は、白鵬を日馬富士の共犯に仕立てて引退に追い込む腹でいやがる、勿論、俺達のやってきた事まで洗いざらいメクる(暴露)つもりでいるのがありありじゃねえか…
 
おい、誰かあの馬鹿の首に鈴を付けに行く奴はいねえのか?
 
貴ノ岩にモンゴルの一統から連絡させて情に絡めてこれ以上事件にさせぬ様なし崩しにしようにも、貴乃花の野郎め、貴ノ岩の携帯もブッチさせて音信不通にしておいていったい何を企んでやがる?
 
奴がこの春の理事選に出てくる前に先に叩いてしまうしかねえぞ、貴ノ岩も出来が悪いって言うじゃねえか、弟子の件で裁判も抱えているらしい…隠し子騒動でも何でもいい、奴のアラを暴いてマスコミに流して徹底的に潰してしまえ!」と…
 
天の邪鬼な私には感じられるものです(笑)
 
私は、若貴が引退し、日本人の横綱が不在となった時点で、相撲への興味が失せてしまったものでした。
相撲で言われる「心、技、体」などと聞くと、いかにも横綱などは人格者の様に思えるかも知れませんが、心、技、体は全てのスポーツにあてはまる格言でもあり、何も相撲界の専売特許ではありません。
旧態依然の師弟制度の相撲の社会はとんでもないエゴを蓄積しやすいものです。今いる親方連中が「俺達の時代は竹刀で稽古の時叩かれまくりだった」などと、懐古の様に話している内は、こうした暴力沙汰が無くなる事はなさそうです。
 
白鵬は自らが角界の父と仰ぐ昭和の大横綱、大鵬(故人)の慧眼に叶った確かに優秀な横綱だったかも知れません。
でも、その大鵬が前人未到の32連勝の次の勝負で行司差し違いで無念の負けを喫した時、周りから本当は勝負に勝っていたのにと声がかかるも…『そういう風に見られる相撲を取ったの
が悪いんだ』と行司の審判を批判せず謙虚な態度を崩さなかったといいます。
 
それに比べて白鵬は…
 
暴行事件の余韻冷めやらぬ九州場所、結びの一番で初黒星を喫した後、土俵下で右手を挙げて勝負審判に立ち合い不成立をアピールし、約1分半も勝負後の礼をしない前代未聞の振る舞いをした事など記憶に新しいものがあります。こんなところにも同じ「鵬」が付く横綱でも、人としての器の違い、横綱としての器量の差が歴然と現れるものです。
 
その昔、極道当時の若き日など、今は親方衆のお偉様でいる様な関取を、車で送迎した事などもありましたが、当時など、極道と共にする関取の飲食の席を見て「まったく遠慮ちゅうもんを知らへんのかいなあれらは(相撲取り)寿司屋に行けばごっつぁんです、ごっつぁんです言うてやな、パクパク高い寿司、10人前も20人前も一人で食べやがって、男芸者と一緒やないかい」とぼやく様に話すヤクザもいたものです(笑)
 
若き日の純情も、健気な思いも、やがて時と共に、立場や栄光と共に変節し、傲慢なエゴ(自我)に姿を変えて行く事に於いて、相撲であろうが芸能界であろうが、政治屋の世界であろうが、そこに転落やトラブルの軌跡を見る時、善もやがて悪に姿を変えてしまう様な(或いはみてくれの美も醜に)諸行無常の因果律がこの娑婆(しゃば・現世)で作用しているのは間違いの無い事でもあります。
 
「苦の娑婆」とこの私達の生きる世界を看破したブッダが、エゴ(自我)に幻惑されぬ様「思考を見張る事」の大切さに触れているのはこうした事にも理由があるのかも知れません。
 
世界が様々な激動、激変の潮流の中にあって、相撲と言うたかだか一スポーツの狭い世界の中のトラブルを、針小棒大に連日報道する日本と言う国は、平和ボケしていると言う見方もありますが、スピリチュアルな視点から言えば、世界に見る国際情勢も、たかが相撲の世界も、私達が集合意識の中で台本としてそこに置いて見ている事に違いありません。
 
そうした視点で全ての事象を見る事は人として生きる上でも、スピリチュアルを学ぶ上でも大切な事ではないでしょうか?
 
                      合掌
 
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