東京都足立区は高齢者の多い区として知られています。足立区内にある私の住む地区もお年寄りも多く、戦前や戦後間もなくよりこの土地で暮らしてきたと話される方も少くありません。
お陰さまで当年51歳の私なども、町内のご高齢のご婦人達から「ワタナベさんまだお若いから、この辺で一番のヤングだからね!」などとからかわれてしまう始末なのですが(笑)程よい距離感はありながらも、挨拶から声かけに至るまで、いまだ昭和の下町情緒の残る町でもあります。
でも、そんなこの町にも諸行無常の風は吹いているもので…
この一週間程前に、私の家のご近所の奥さんがガンでお亡くなりになりました。70代前半だったと思いますが、最近めっきり姿を見せなくなった事から「ひょっとしたら」と思っていたものですが、連れ合いの旦那さんの方も心労からか、みるみる痩せて行ったもので…
夫や妻の病と言うものが、配偶者は勿論、家族や周囲に様々な有形、無形のシフトとして波及して行く事は誰しも年齢と共に経験して行く事とも言えますが、特に妻に先立たれ残された夫である旦那さんにそれが著しく現れる場合が多い事なども、セッションを通してお見受けしてきた事でもありました。
生きている時は、いつまでも変わることなく自分の側にいるものと、ぞんざいにさえ扱っていた自分の妻…
でも、いざ病にかかり先立たれてしまうと、良いところばかりが思い出され、すがる母性を失った子供の様に、懐古と慚愧が入り交じった様な気持ちで残りの人生を過ごす男性も多い様です。
奥さんに先立たれた男性がある時私のセッションを受けにきてくださいましたが、その方は「正仙さん、もうあれ(妻)がいないんじゃ、私の人生も付録みたいなもんですよ」と自嘲気味に言ったものでしたが、ジェンダー、性別で優劣は無いにしても、直線的で封建的なエネルギーが原型としてある男(今は女性性の強い男性がとても多い)と言うものは、いざ妻に先立たれると生きる甲斐を失い、生命力さえ、大きく減退させる傾向さえあるかの様に思える時があるものです。
これに対して、夫を亡くした女性と言うのは、ショックから統合失調症になったり、ハードなシフトを経験しても、やはり子供を産み、育て、守ると言う、男では為し得ぬ人生の一大事業を経験している事などが、しなやかにしたたかにその後の人生を生き抜く強さとなって反転するかの様に現れる場合も多い様で、生きる意味や自分と言う実存への問いかけ、スピリチュアルな探求心と言うものさえもこうした時期に開花される方も多い様です。
信念やとかく社会的体面や体裁を気にし、金、出世、所有と、表のパワーを追う傾向がある男性に比べ、女性がスピリチュアルに飛び込みが良いと言われる由縁も、子宮で考えると言われる女性の能動的な思考形態の影響と言うものもそこにはある様です。
冒頭のご近所の奥さんが数ヵ月前にご自宅の前で苦しそうに壁に手を付き支えるかの様に立ちつくす姿に出くわした時があります。
この時、久し振りにこの方の姿を見た私でしたが…
あの世に旅立つ前の人間のオーラと言うもの、影が薄いと言う形容も昔からありますが、私の場合それは子供の頃より、身体から顔が浮き上がっているかの様な違和感を伴う奇妙な姿に映る時が多く、これはチャクラやオーラの状態を反映しているものであり、この女性にもそれをありありと見て取る事が出来たものです。
それでも「コンチワ、久しぶりですね、お元気でしたか?」と平素を装い声をかけた私でしたが、するとこの方「ええ、家にいると寂しくってね…ここにいると(工場)みんなの声が聞こえるから安心なんです」と力の無い声で答えるのでしたが…
こんな短い言葉にもこの方の死への恐れ、自らが朽ちて滅びて家族の前から消えてしまう恐れ、葛藤が伝わってくるかの様でもあり、年齢を重ねても安心を得る事を許さぬかの様なこの娑婆(しゃば・私達の生きる世界の事)で生きる人間の姿を映し出している様でもありました。
東日本大震災が発生した時、東京も激しく揺れたものでしたが、間断なく訪れる強い揺れにこの方が「怖い、怖い」と家の前の通りにへたりこむ様に座っていた姿などを思い出したものです。
神から切り離され、肉体を持つ姿が全てとばかりにあらゆる恐れを突きつけてくるこの時空世界を貫くエゴの幻想と言うもの…それに対し、この世界を思考一つで、ポジティブなアクションで、思うままに生きられると言う今流行りのスピリチュアルから成功哲学、引き寄せ、ビジネスセンスだけでは納得の出来ない、気付きの進んだ方の多い時代に世界は移行しているものを感じる事が多くなりました。
それは身体としての生をエンジョイし、ニーズを満たし、欲しいものを所有するだけでは、やがて劣化し朽ちて行く身体と言う乗り物に対する恐れ、死に直面する事に答えを出せない事を、深いレベルで認識している方が激増しているものを、地球のエネルギーの変容として受け取っているからなのかも知れません。
近所などに限っても、冒頭の方の他にも、やはりご近所で朝夕など、親しく挨拶を交わしていたご婦人が最近亡くなり、以前はよく行った床屋の奥さんも痴呆の果てに亡くなり、近所の店舗も薬局、雑貨屋、理髪店、銭湯、居酒屋、私のところにセッションに来られた事のある方なら知ってる角のラーメン屋も廃業し、このラーメン屋によく出入りし、昼間から酔っ払ていたオッサンの内二人が亡くなり、
一人はよく道路で泥酔し寝ていたオッサンで、冬場などよく身体を揺すって起こした方でした。
もう一人は肝硬変?で余命いくばくもない事を日頃から公言し、このラーメン屋に入り浸って酒を飲んでいたものでしたが、寿命が尽きる数ヵ月前には、このラーメン屋の大将と大ゲンカし、出禁になるものの、腹に収まらぬこのオッサンは何度もカチコム(殴り込み)様に昼間からどこかで酒を飲み勢いをつけ、大きな声を張り上げ、このラーメン屋の入り口でこのラーメン屋の大将や来ている顔馴染みの客を罵るのでしたが、あまりに近所に響き渡る声なので、表に出ると、私にすり寄る様に寄ってきて自分の正統性を訴えるのでした。私はそれには取り合わず、さっさと家に帰る様に諭したものでしたが…
それからしばらくすると、今度は近所のコンビニの前でウンコ座りをしてたむろする高校生を注意した事に端を発するトラブルを引き起こし、クライマックスなところにたまたま私も居合わせたものでしたが、高校生達に「何だよあのジジイ、超ウゼエんだよ」と女子から男子生徒まで10名位の高校生に総スカンを喰い、駆け付けてきたのか、学校の先生に生徒との間に入る様に止められ、その肩越しに「テメエらこの野郎!ガキのくせしやがって皆の迷惑考えろてっんだこの野郎!俺だって昔はな!」と吠えるのでしたが、私には「俺だって昔はな!」と吠えるこのオッサンの姿が、余命いくばくもない死へ向かう自分を受け入れられず、寂しさや恐れが入り雑じった赤裸々な姿に見えたものです。
余談ですが、この現場となったコンビニの店長も、とても気の良い人間なのですが、近くに同系列のコンビニが出来た事から客離れに悩んでいるところを強盗に遭い、揉み合った時に筋断裂などのケガをし、また強盗に押し入った人間もその後、金銭苦からか死んだと(自殺)警察から連絡が入ったそうです。
そして、この件のラーメン屋の大将も、店を閉める少し前には気立ての良い年上の彼女が出来て、人生の晩年をうまい具合に軟着陸出来たかと思いきや、この春には交通事故に遭い、複雑骨折し、足にボルトを何本も埋め込むほどの大怪我を負い、それでもある時車椅子に乗ってかつての自分の店の前にきていたものです。変わり果てた姿に私が声をかけると、精一杯強がるのでしたが、車椅子を押していたこのラーメン屋の大将の弟さんは私に半ば呆れ顔で「身体が不自由なもんだから弟の私にわがままばかり言って困るんですよ、何とか言ってやってくださいよほんとに、まったく好き勝手に生きた男のなれの果てですよ、まあ…次は葬式ですから、お宅お坊さまですよね、その時はよろしくお願いします。アッハッハ!」と笑うのでしたが、兄をよく知る弟ならではのジョークの様でもあり、そこに他意はないのでしょうが、年齢からしても、リハビリしたところでびっこを引くことは免れられぬものが感じられ、この弟さんのジョークに素直に笑えなかったものです。
また私がよく行くカレー屋のネパール人夫婦のご子息も、まだ五歳と可愛い盛りを、ネパールの大地震の後で、肺炎を患い急逝…いつも私のテーブルに来ては大きな瞳で片言の日本語で挨拶し話しかけてきていたこの子供の姿が、天使の姿の様に思い出され、子供を溺愛していた事から身体を引きちぎられるかの様な狂気さえ駆け巡ったであろうこの夫婦に違いないのですが、悲しみが癒えるには当然これからも長い時間はかかっても、今では快活な笑顔を取り戻したこの夫婦の姿を見る度に、ハードな赦しのレッスンを乗り越えた人間の輝きを見るかの様な思いにさせられる時があります。
フェイスブックで繋がり、リアルにお会いした方なども、この一、二年の間に二名の方が四十代半ばで旅立って行かれました。死因はいずれもガン…
いずれも「何でこの人が」と思わせる様な聡明で優しい方達でした。
近所など、本当にとりとめない私のエネルギースペースの中でも、ここ約一、二年だけでもこれだけの流転著しい、具体的にも死と言う事象を浮かび上がらせています。
勿論私は喜びにも心を開いている人間であり、最近では死を忌むべき事ばかりとは考えていないところもあり、TVなども殆んど見ない現在ですが、それでも時折目にする時に報じられている大惨事や様々な残酷な事件、人に見る不幸なども、自らの何処かの部分から投影された幻想であり、この時空世界に生まれて来る時に全てシナリオに同意し契約している事象と認識し、速やかに自らのエネルギー(想念)から浄化するのが常となっている事もあり、暗い想いにいつまで囚われる事がありません。
死は人間にとって忌むべき最たるものとされていますが、果たしてそうなのでしょうか?
私がまだ成人間もない二十代前半の頃、当時の極道世界の大抗争で、ヒットマンと言えばいかにもカッコ良い響きですが、要するに鉄砲玉として西に東に潜伏していた時があります。
そんなある時期、抗争が小康状態になった事から緊張から解き放たれた反動からか魔が差した私は、致死量の覚醒剤を身体に注射し、死線をさまよった時があります。書けば長くなるので割愛しますが、その時電線が強くショートする様な意識の混濁音と共に幽体離脱し、ホテルの一室で目を明けたまま仰向けにひっくり返っている自分の姿を天井に近い虚空からありありと見ていたものです。
幽体離脱を繰り返した後、その他にも八方に霊的存在が立っている気配と話し声、巨大な門がギシギシミシミシ開かれる様な音、それは霊界と現世の間にいる自分が生と死のボーダーラインにいる事を象徴するかの様な音でもあり、最後には無意識に胸の前で三角形の印を組み、もの凄い熱い氣がハートチャクラのある辺りに流れ込んできたところで意識を再び失い、待ち合わせをしていた人間が、時間に現れない私を不審に思い、ホテルに注進し、フロントキーを使い踏み込んできてくれたお陰で病院に搬送され一命をとりとめた私だったのです。
幽体離脱をしている時、私には身体から離れている認識が明確にあり、これが幽体離脱ならば、何処かテレポートする様に遠くへ行けるはずだと天井を突き抜け様と意識を向ける度に身体へ戻されると言う事を繰り返したのでしたが(ズンと身体に戻る感覚有り)このまま死ぬんだなと言う気持ちと共に、身体を離れた途端に、時間の制約から解き放たれた開放感も同時にあり、まだ極道の世界に執着もあった若き日の私にとって、こうした体験を経ても、決定的なスピリチュアルへの気付きの体験となるどころか、幽体離脱したなどと口に出して言えば、その世界で「あの野郎、クスリ(覚醒剤)で頭がテンパッテ物を言ってやがる」と馬鹿扱いされる事を恐れ、自らの中で世迷い言の様に封印してしまったのでした。でも、そんな影(シャドウ)から世界を見ていた当時でも、人間死んでも意識は絶える事なく継続して行くと言う事が、ハッキリと分かった出来事でもあったのです。
本来の意味で死はなく意識は絶える事なく継続して行きます。
人間死ねば日本の死後の観念ならば三途の川を渡り、ふわふわとあてどない世界に放り出される未知の世界を連想するので、死を忌むべきものとして怖れるのかも知れません。
私なども僧侶となり、ヒーラーとしてスピリチュアルな道に転身してより当初は自らの内面、エネルギーの浄化が始まった事もあり、くる日もくる日も悪夢を見たもので、夢の中で、これはあの世と呼ばれるところに来ているなと実感出来た事も幾度かあり(地獄も)その他にも自らがクリアにすべき恐れのパターンをハイアーセルフが夢を通して繰り返し教えてくれている時もあれば、自分におきる赦しのレッスンを伴うサプライズを象徴化している様な夢、最近では私の元にセッションに訪れる方のエネルギーパターンを事前に夢で教えられる事も多くなりました。
※ハイアーセルフとは内なる神、高次の自分、神と共にある自分の良心、この世に於ける課題、カルマを統括する誰しにもある聖霊の事。この事に照らしてみても決して人間が孤独で神から切り離された存在で無いことは明らかです。
スピリチュアルであろうと自己啓発であろうと、瞑想であろうと、見ていると多くの人に支持されウケがいいのは、やはり肉体を持った今を心豊かにエンジョイする事に主眼が置かれているものの様で、極力死と言うもの、簡単に言えば天国への移動については言及しないでまとめ上げているところに苦心が見受けられたりするものです。
この世界は本来神と一つである神の一人子が「分離を経験したらどうなるか」と思い迷いこんだ分離を源とした幻想の世界、ご褒美の様に楽しませてくれる事もあるが。それも身体に執着させ、何度となく霊性のビュッフエであるこの地球に輪廻転生させる為のエゴのトリックであり、輪廻転生も壮大な夢ならば、世界や他者、宇宙などと言うものは本当は無く(宇宙好きのニューエイジの方には申し訳ないが)たった一人の神の子が、全世界約74億の多重人格障害を経験し、リアルは向こうで(あの世)こちらは赦しのレッスンを重ねて罪悪感を手放し神に還るための場であると明快でありながら妥協しないその内容で知られる、キリストの言葉をチャネリングで口述筆記した霊性の書「奇跡のコース」や「神の使者」の死生観は、天変地異から戦争、殺戮にまで神が関与していると言う二元性の神に慣れ親しんだ方にはショッキングな内容で受けとり難いのかも知れません。
私が講演などで話す事もある獄中でスピリチュアルな気付きをもたらしてくれた「神との対話」もこの範疇を出ていないものをある時期より感じ、素晴らしい気付きをもたらしてくれた本なれど、その時々の自分の気付き、エネルギーレベルに沿ったものを聖霊(ハイアーセルフ)は情報として提供してくれるものであり、今では「奇跡のコース」や「神の使者」を支持するに私自身もシフトして行ったのです。
昔、極道同時に交流のある堅気の社長さんが私に言ったものです「組長、ヤクザって、二つの歯車を押して来ますよね」と…
これはかたやで「社長、何かの時はいつでも言ってきてくださいよ」と笑顔で親密ささえ装い握手を差し出しておきながら、かたやでは自分の若い衆にその社長の会社やプライベートまでの弱みを探らせ、場合によっては知らんぷりを装い他の人間に脅しに入らせ、こちらに自然と泣きが入る様に頼ってくる様に仕向けて行くもので、結局それはどの様にしてその人間から金を吐き出させるのかと言う事を根にした行動原理でもあり、その世界特有のものがありました。
でも…考えてみれば国家間での駆け引きや紛争、謀略の裏にも同じ鋳型があり、企業間でも同様であり、競走や対立、争いのあるところ、私達が採用しているエゴのパターンでもあるのです。
でも、これと同様に神も握手とゲンコを使いわけ、無上の愛を人々に注ぎながら、かたやでは泣き叫ぶ人達の命を容赦なく奪う戦争やテロ、病気や飢饉、地震や津波などの天変地異に至るまで、犯罪の教唆扇動役の様にそこに神が加担しているのでしょうか?
そんな神のどこに安心や愛を見出だす事が出来るのでしょうか?
そこには自分のふがいなさも、人に対するエゴや攻撃さえも、まるっと是認して自分の粗さに向き合わなくていいんだといい気にさせてくれる都合の良い神への渇望と言うものが、今のスピリチュアル、今の自己啓発に至るまで蔓延しているものを感じているのは私だけでしょうか?
こんな事を言っている私はやはり大衆向けの教師には不向きなのかも知れません。密教僧侶でありながら、「奇跡のコース」の勉強会だって開きかねないものがあります(笑)
でも、真実はとかく人を揺さぶり、快く耳に入る事ばかりではありません。
霊的教師と呼ばれる人達は、集客の上でも、この世界が身体の生をエンジョイ出来る楽園だと言う様な爽やかな起承転結で締め括らなければならない都合に迫られている事、多くの人が気付く時代になってきています。
映画はリアルでないと知っていても充分に楽しめるものです。
本来死などと言うものはなく意識は継続して行く事、ここで何者であったのかはあの世に移動して映し出され、人にした事や世界に送り出した事を、等同に別の生涯と言う夢で形やケースを変えてでも受け取らなければならない事、そう言う意味に於いて特別な人は誰もおらず、他者はいないと言うのが真実の様です。それこそ全てが一つとするワンネスでもあります。
特定の宗教に導引すると言う事は排した上で、学校教育の場で死というものは本来無く、意識は継続される事を教え、幻想の世界を生きている事や、そうした真実を知っていればこそ人生と言う夢を楽しめる事も教え、人への見方や行いがイコール自分にフィードバックされる因果律を教えて行く時、世界平和ばかりでなく、あらゆる犯罪や貧困さえも解消へ向かう大きな試金石になる事は火を見るより明らかなものを感じますが、でもそれをされたんじゃ困る抵抗勢力と言うものをエゴは現出させてくるもので、体制に順応させる意図を持ち、人からどう見られるかと言う縛りを発生させる現在の学校教育の場でこれが実現するのはいつの日になるかわかりませんが…
ご高齢の方なども死への恐れがある事に変わりなく、また病気による痛みや周囲に迷惑をかけての移動(あの世へ)は嫌だと訴える人も多く、こうした方にセッションの場では死と呼ばれる事象の後でさえ意識は継続して行く事などもお伝えして行きたいと思う愚僧であります。