※社会通念上、不適切な表現や描写がある事をお許し頂きたいと思います。写真はKindleから4月8日に発売された電子書籍の表紙より
私は二十代前半、一時はそれまでいた極道社会を離れ、堅気になり、廃棄物処理業を営む父親の仕事に就いた時がありました。
私が子供の頃などは廃品回収業はクズ屋、バタ屋など蔑称で呼ぶ人も多かったものですが、まだ蒸気機関車が走っていた昭和30年代初頭に東北の地より集団就職で東京に出て来た父は、タクシーの運転手をするかたわら屑商を兼業し、円安によりクズ鉄や新聞紙、ダンボールなどにも高値がついた高度経済成長期の煽りも受けて、そこに華々しさは無くとも、遊びなど知らぬ仕事一徹の真面目さが効を奏して、みるみる仕事の規模を大きくして行ったのでした。
でも、酒乱の上に気難しい事この上なく、子供の頃など毎日の様に卓袱台をひっくり返し、母に暴力を振るう父親の姿は私の中で鮮明に焼き付けられ、暴力や酒を憎む気持ちと共に、幼少期の頃にあった父親に対する恐れは、中学に入り腕っぷしにも自信がつきグレはじめた頃には、恐れから憎しみへと姿を変えていたのです。
中学を卒業した私は家を出て就職するも長い事続かず、右翼団体に入り、やがて極道の世界に飛び込んで行きました。
十代の頃などは鑑別所から学園、中等少年院から特少(特別少年院)、成人間もない頃にも少年刑務所に服役するなど、娑婆と塀の中を往復する日が続き、こうした事が仕事一徹の父親の世界観に合致するはずも無く、実家に寄り付く事もなかった私なのですが、少年院を出た後などは保護観察に付されるために、いやが上でも親元で一時期を過ごさなければならぬ制約などもあり、家に帰るものの…
私の更正の行状を観察する保護司が町の助役であった事から、毎月顔を出し、通い帳にハンコを押してもらう時だけ「オヤジ、作業着借りるぜ」と作業服に安全靴までを着用し、さも父の仕事を手伝っている風体を装いながら、家に帰ってくるなり、さっさと作業着を脱ぎ捨て、家の仕事はおろか定職に付く気配さえ見せぬ私と父親がうまく行くはずもなく、酒の勢いを借りて絡んでくる父と私が掴み合いになる度に、必死に止めに入る母が気の毒でいたたまれなくなり、家を飛び出てしまう私でもありました。
十代の頃は家に寄り付かなかった私ですが、そんな私も二十代前半の一時期、堅気になり、一年にも満たない期間でしたが、実家に帰った時があります。
この時ばかりは私の堅気になる決意が固いと見たのか、小指の無い私を両親も暖かく迎えてくれたものです。父親もこの頃には以前に比べ温厚になっていたもので、私も脇目もふらずに実家の仕事を手伝い、非鉄金属や古紙回収、廃棄物処理などの仕事は一見地味な仕事なれど、鉄と一概に言っても、色んな種類の金属があるもので、胴やアルミ、真鍮など、鉄に比べて問屋が高い値で引き取る「光り物」と呼ばれる金属の目利きが多少なりとも出来る様になると益々面白くなり、汗を流し働いた後の食事の美味さや充足感はそれまで味わう事の無かったものであり、私が帰った事を喜び安心している両親の顔、穏やかに過ぎて行く日常に…
ヤクザだった事も、警察の世話になり施設に何度となく入った事も、昔遊び人だった人間が若気のいたりを懐かしく語る様に、また私も過ぎたる過去の出来事としてそれらを振り返る日が来るのだろうか?と、迷う事なくこのまま堅気で生きて行くかの様にさえ思えたものです。
でも、人生とは「お試し」の連続である事は、若い内は気付かないものです。
私が地元に帰ってきている事を聞き付けたのか、地上げの仕事を依頼してくる人間、債権取り立てを頼んでくる人間なども現れたもので、これなども私が極道をしていた事を見越して頼んできている事であり、私が本当に堅気に生きるのであれば、間違っても引き受ける事など出来ぬ、今の自分には不相応な事ときっぱりと断らなければならないで事でもありました。
でも、その頃の私は水を得た魚の様に、そうした話しに飛び付いたものでした。
今まで不動産業者が日参しても、決して土地の売買に首を縦に振る事のなかった地主の家を訪れた時など、すでに土地の売買の話しが進み、金銭が動いていると言う様な話しまでデッチ上げ、言葉は丁寧ながらも地主にプレッシャーをかけ、その日の内に売渡承諾書にサインをさせるそのやり口は、不動産業者の正規なやり方など度外視するかの様な、出たとこ勝負のヤクザの発想から出ているものでもありました。
債権取り立てなども、ある時など、債務者の土建会社に行くと、借金慣れして、踏み倒す事など屁とも思っていない雰囲気をありありと醸し出している、今は亡き金正日に似た悪徳高利貸しの様な顔をした社長の目の前で、借用書を持ってこの場所に現れた自分の因果を手短に話す私に、開口一番「オタク看板持ち(ヤクザ)ですか?」と、私がヤクザか堅気か訊ねてくるこの社長に、私はわざとへりくだった様に「いえ…私は○○の親戚でカタギです」と債権者の親戚を装い答えたものです。
すると、「あんた、○○さんと親戚だか何だか知らないが、カタギで取り立てはまずいだろう…もっとも今は金がねえから逆さに振っても鼻血も出やしないけどさ、あはは、ところで俺は○○組の相談役もしてるからこれから若い衆呼ぶけどいいかな?」と、人を喰った様な物言いをするこの社長に…
○○組と聞いた私は、ローカルな田舎町のヤクザの事、年寄の組員も含め三名程の組だったなと思い出し、一応向こうは代紋持ちのヤクザでもあり、後の面倒を考えると、あからさまなケンカは売れぬものの、来たら来たで借用書一枚でとことんゴネ倒してやれと腹を決めたもので…
「何だ?あんたこそ町の仕事もするカタギのくせして語るのか?(ヤクザの名を)カタギが借金取りしちゃいけないって法がどこにあるんだよ、おもしれえや、どこのどなたが来るのか知らねえが、呼んでくれや!」と答えると、意外な答えだったのか?少し慌てた様子で「あんた、事務所に連れて行かれてケジメ取られても知らねえぞ、オイッ、○○に電話しろ!」と、私を威圧する様に立っていた数名のこの会社の飯場で暮らす若者らしき内の一人が、心得たとばかりに、コードレスホンを片手に表に出て行ったものです。
30分程経過したでしょうか…出されたお茶に手を付ける事もなく、私は目の前に座るこの社長を見据えていたものでしたが…
「社長さんよ、○○組の事務所からここまでなら、とうに誰か着いてるはずだが、誰もこねえじゃねえか?」と切り出した私に「いや、きっと義理事か何かで皆出払って、事務所に誰もいないだけだろう…なあ、そうだろ?」と先ほど子機を持って表に出た若者に問いただすこの社長、その時この社長が微妙な目配せをこの若者に送ったのを私は見逃しませんでした。
つづく