どこでどんな形で入り組んだ人の繋がりがあるかわからぬ政治と宗教…
そうした事を何の気なしに口にしたばかりに、とんだ地雷を踏むハメになり、後味の悪い経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか?
スピリチュアルな仕事は言うに及ばず、営業や飲食、物販であれ、人を相手のお仕事をされている方の中には、特定の政党や宗教に対しての批判やコメントを口にしたり、自分のブログに書き込んだりする事を避ける傾向があります。
そこには、その政党や宗教を支持したり信者だったりする方へのプライベートな配慮と言うものもあるかも知れませんが…
自分が政治にしろ宗教にしろ、特定のカラーが付いた人間として見られるのを嫌い、仕事や営利に影響が出るのを防ぐ人間の処世としての意味も、そこにはあるに違いありません。
流通性のある商品の紹介や販売をブログやfacebookで展開している人などは、そうした商品やサービスを、色付き眼鏡で見られる事の無き様、個人のつぶやきから、特定の政治や宗教観に至るまで、個人の主観とする事は、別のサイトを立ち上げ、そこに書き込んでいるケースも多かったりする様です。
しかしながら、ヒステリックに特定の政党や個人を誹謗中傷する事は無くとも、その根底を流れるものに、しっかり心の目は開いておきたいものです。
先日もある方が『私個人としては、脱原発なのですが、私の会社の上司が自民の上に大の原発再稼動派でして、私のブログをよく見ている事から、脱原発な正直な思いを書けば、機嫌を損ねる様な気がして…そんな風だと、他の事でもこう思われるんじゃないか、ああ思われるんじゃないかって、最近ブログを全く書く気になれません…。』とお話し下さいましたが、これなども、形は違えど経験している方も案外多いのではないでしょうか?
だいぶ前など、私よりセッションを受けた、あるお寺の尼僧さんがいらっしゃっいましたが、この方、先天的にスピリチュアルな能力の高い方で、ヒーリングや霊視によるカウンセリングなど、声音の良さもそこに加わって、スピリチュアルカウンセラーとして活躍されていた方でもありました。
ところが、この方がブログで、自らのセッションを受けた方の感想や、スピリチュアルな内容の記事を書いたりすると、それを見た本山の役員僧侶からクレームが入る様になり、話しを聞けば『寺の僧侶たる者、ブログにヒーリングやスピリチュアルなどと言う、怪しい横文字を並べるのは、寺としての品位を疑われる事に他ならん!』と言う様な内容で、私も僧侶ながら、今時、そんな時代錯誤な事を言う寺があるのか?とア然とさせられたものでしたが…
そうした事が重なり、結局この方は寺以外でのスピリチュアルな活動を断念し、ブログも閉じてしまったのです。
これなども、エネルギー侵害の一つのケースと言えるのではないでしょうか?
アメブロやmixi、facebookでも、友達ばかりでなく、会社の上司や後輩、先生と弟子、教師と生徒など、様々な人間の関わりがリンクされる現在のインターネット社会でもありますが、それだけに錯綜する人の思いも発生する様で…
一部の人達の間では、facebookの『いいね』に見られるフォローの数を、その人間の人気を占うバロメーターの様に思っている方もいる様で、『〇〇さんの記事には最近、〇〇さんのいいね!がつかないから疎遠になったのだろう…。』とか、『〇〇さんの書く記事はいいね!の数が減り出したから、人気に陰りが出たのでは?』とか、人の記事に付くフォローの数までを詮索し、井戸端会議で、得意自慢げに話しの種にしている方などもいる様です。
これなども、フェイスブック症候群と呼べる事象の一つなのかも知れませんが…笑
人の思惑や評価を気にし過ぎてブログやfacebookなどを書く時、どこか自分とはそぐわない文章になったりするものかも知れません。
ましてや前出のケースの様に制限される状況があると、その文章も固いものとなり、文章を書く閃きやインスピレーションもせきとめられてしまうものです。
個人の誹謗中傷は書かずとも、もしそこから傷ついたものがあったとすれば、その時感じた心の疼きや心の風景と言うもの、誰を傷つける事なく、綴る事が出来る尺度や良識と言うもの、心を澄ませば誰にでもあるものだと思います。
ブログやfacebookなどは公共性はあるものの、文章は本人の自由意思で書かれるべきものであります。
書いた記事に対するコメントは別としても、よほど逸脱し、そこに心配なものでもない限りは、たとえ親子であろうと、先生と生徒であろうと、会社の上司と後輩であろうとも、立ち入らぬのがそのエチケット…
前出の様に、書いた内容に制限が加えられるケースと言うのは、ブログやfacebookなど、インターネット上の問題としてだけではなく、その人間関係自体に派生しているものを認める時があり、強いるものや、縛りをもたらす特定のエネルギーパターンがある事など、セッション時にお見受け出来る時があったりするものです。
合掌