※得度式にて
このシゲと言う弟分はやはり他のヤクザ組織で幹部だった男でした。
お互いに意気投合し、彼は私を「兄貴」と慕ってくれたものです。
彼は北海道が地元でもありました。
北海道と言うところは札幌などの都市化された街はありながらも、冬は雪に閉ざされてしまう事もあり…
内地への「出稼ぎ」で知られる様に、冬場などは屋外での仕事などはめっきりなくなってしまう土地柄でもあります。
そんな事にも影響されてか…裏社会に生きる人間達も経済活動の乏しい中で収入をあげる為に手っ取り早い覚せい剤に手を出すケースが多い様で、このシゲと言う男も長い間の覚せい剤使用の遍歴がありました。
私と知りあった頃なども彼は「兄貴、冷たいの触っちゃダメですか…?」と聞いてきた事があります。
「冷たいの」とは覚せい剤を指す隠語であり、「触る」とはこの場合密売を意味しています。
私はこれを聞くなり…
「バカヤロウ!だからてめえはいつまで経っても愚連隊根性が抜けんのじゃ!」と頭から怒鳴りつけたものでした。
私を慕って集まってきた人間に対しても私は破廉恥な事や覚せい剤だけは決して許す事がなかったのです。
その頃の私は電話の声ひとつで、相手が身体に薬(覚せい剤)を入れているのか分かってしまったものです。
※覚せい剤を使用すると気道が収縮し、声帯にも微妙な変化が生じます。
覚せい剤と言うものは、使用しているその本人だけでなく、周囲をも巻き込み破滅へ向かわせるもので…
それは私自身、若い頃より随分と見てきた事でもあったのです。
そこには覚せい剤を憎む気持ちさえあったのかも知れません。
そんなシゲもやがて東京で嫁さんとなる女性を見つけ地元へ帰って行ったのでした。
時折、地元のヤクザとトラブルを起こしたりはしていたものの…
子供も生まれ、落ち着きも出てきた彼は、元より商才がある事から飲食店のオーナーとして多彩なビジネスを展開する様になっていったのです。
確執のあった元のヤクザの親分とも和解し、堂々と地元でも商売が出来る様になったシゲ…
本当に私は嬉しい気持ちでいっぱいだったのです。
この当時の私は、周りに集まってきた皆が、例え小さなスナックの一軒でもいい…そこに合法の部分で食べて行く事の出来るものを築いて行って欲しい思いでいっぱいだったのです。
私はちょうどこの頃…師僧の門を叩き、得度を決意した時期でもありました。
そんなある日の晩…シゲから電話がかかってきました。
「兄貴…」と彼の話すその声音…生気の感じられないその声に私は嫌なものを感じたのです。
彼が再び覚せい剤を身体に注射しているだろう事は明らかでした。
私は次の刹那…「お前まだイタズラ(覚せい剤の事)してやがるのか何度言ってもてめえはわからねえんだな…クスリをしたいばっかりに地元へ帰ったのかこの大馬鹿野郎が!」と電話越しに怒鳴りつけていました。
私には今このシゲが人生上の大事なボーダーラインに立っている様に思えてならなかったのです。
彼はよく私に聞いてきたものでした。「兄貴…もう一度極道の世界に戻る気になってもらえないですか…?みんなそれを望んでいます。自分も兄貴に一生ついて行くつもりですから」と…
極道当時の私なら男冥利に尽きる言葉だったに違いありません。
でもそんな時…「極道に成りたいなら俺に遠慮はいらんから、好きな所へ行け!」と答えるのが私の常でもありました。
皮肉なもので、極道当時は得る事の出来なかった、暖かみがあり人情の通った人間達が私の周りに集まって来ていたのです。
さながら人情長屋の様な感さえありました。
でもそれさえも世間から見れば、組織からはぐれた破門者グループと見なされかねないのです。
仏門を志し、霊性の道に踏み出そうとする自分と…
ヤクザの看板が無いと言うだけで、「親父」「兄貴」と以前の名残りそのままに生きている自分…
二律背反とも言える自分の置かれた状況に猛烈な葛藤を感じ始めていたのもこの時期です。
私はシゲが汗水流して働く堅気の仕事には無理なものを感じていました。
しかしながら…例え風俗や水商売でもいい…ヤクザと交わる部分があってもいい…組織に属さずとも「商売人」としてしっかり地元に根をおろし堂々と生きて行って欲しかったのです。
人は分相応にしか生きられないと当時の私は思っていたのです。
それから数日後、得度の後にその加行で拝む事になる如意輪観音の埃を払っていた時の事…
添える様に仏像の後背に指で触れると…
「ポキッ…!」と後背の先端が折れてしまったのです。
私にはそれがまるで、何かの断末魔を告げる音に聞こえたのです。
その日の深夜…私は猛烈に心臓があぶり出すものを感じ「ハッ!」と目が覚めたのです。
目を開けた時に「アニキーッ!」と助けを呼ばんばかりのシゲの声が聞こえ…
「もしや!」と、私の六感に知らせてくる嫌な予感があったのです。
それから間もなくして…電話でシゲが死亡した事を知らされたのです。
覚せい剤を多量に投与した為のショックが死亡の原因らしいとの知らせに私は言葉を失いました。
北海道へ向かいシゲの亡きがらの側に座りました。
亡くなったシゲのお母さんがお茶を入れてくれました…「最後まで親不孝な子でしたけど…あなたの事はアニキ、アニキっていつも自慢していたんですよ…いつだったか、東京へ宿を取っ
て東京見物へ連れて行ってくれた時もありました。そんな優しい一面のある子だったんですよね」と…遠くを見つめる様に語るシゲのお母さんの言葉に私は少しばかり救われた思いがしたものです。
通夜や葬儀にも地元のたくさんのシゲの同級生や友人達が訪れ、葬式もこれまた同級生の禅宗のお寺の御住職が導師を勤めてくれたのでした。
葬儀と言うものはその故人の持つ徳と言うものをこちらに教えてくれる事があります。
葬儀にはその地区の縄張りを預かる地元の親分も来ていたのです。
それは元のシゲの渡世上の親分でもありました…。
生前シゲはこの組長に破門された事を恨みに思い、反旗を翻す様な事ばかりを私に言ってきた時期もあったのです。
そんな時に私は…「ヤクザは聖人君子じゃないだろう?まして親分って言うのは我が儘な生き物な事はお前も分かっているはずじゃないか…お前はこれから地元で商売で伸びて行く男なんだから仲良くさせてもらえよ!」と諭すのが常だったのです。
そんなシゲの元親分でしたが、丁寧にもてなしてくれ、施主の最前列の席に私をすすめてくれたのでした。
葬儀が終わり火葬場に向かう僅かの間…私は荼毘に付されるシゲの顔を覗き込みました。
走馬灯の様に彼との思い出が脳裏に甦ります。
残した妻や子供を案じるシゲの想いが、私にはありありと伝わってきていました。
「シゲよ…今まで本当に楽しかったな…迎えにきてくれた先達の方の言う事を聞いて、しっかり成仏するんだぞ、いいかシゲ、この先お前のおかあちゃん(女房)がどんな男と一緒になろうとも許してやるんだぞ…女は弱い生き物、生きて行く都合がある事を分かってやれよ…お前が放っておいても子供は育つから心配するな、遠くから見守っていてやるんだぞ、元気でな…」と
お棺の中で優しく微笑むシゲに心の中で語りかけたものです。
シゲの女房は彼が惚れて惚れ抜いた揚句に一緒になった恋女房でもありました。
しかしながら彼女の身持ちの部分で私には感じている事があったのです。
享年40歳…
あまりに早い春の終わり…
私が得度を一ヶ月後に控えた時でもありました。
今でも彼の天真爛漫な笑顔を思い出す時があります。
合掌