先日、床屋さんで順番待ちをしている時の事…
一冊の本を手にとると面白い事が書いてありました。
それは、親しい方の結婚式に呼ばれた時に包む御祝儀の金額に触れる内容で…
「その人の前途の幸せを祈り、八と言う文字が末広がりな事から、末永く広がるばかりの幸せを願い、私は八万円と言う金額をお包みします」と言う内容が書いてありました。
著者はよくTVなどにも出演する銀座のクラブのママさんでもあり、ひとくちに八万円とは言っても一般の主婦の方から見れば大金でもあり、そこに金銭感覚の違いがある事は否めないものの…
親しい人の慶事や祝い事などに於いて、私達はどうしても右を見て左を見て、他の人と足並み(祝い金の金額等)を揃え様とする習慣があったりもします。
でも、そんな時でも、自分なりの感謝や祝福する気持ちの表し方があっても良い事をこの著者は語っている様でもあり、読んでいて心に響くものがあったのです。
私なども以前に極道の世界にいた頃は、その世界での冠婚葬祭などの俗に言うところの『義理掛け』と言うものが常に発生し資金繰りに追われていたものです。
日頃の付き合いのスタンスで多少の変化はあるものの、極道の相手先には十万円、堅気の方には三万~五万円と言った具合に当時は色分けしていたものでした。
極道の世界ではお金の事を「おあし お足」とも言ったりするのですが、見栄や虚勢を張り続けるが為に、まるで稼いでも稼いでもお札に足がついているかの様に逃げて行く金の流れを指す、「悪銭身につかず」とは…
手元に残る事のないヤクザ世界特有の金の流れを皮肉った見事な隠語なのかも知れません。
まだ若い頃など、年末に正月の新巻き鮭の付き合いを頼まれ、器量を見られている様で断る事ができずに、手元にあったなけなしの十万円を失い、溜め息まじりの正月を迎えた事もありました。
万事に負けん気の強かった私でもあり、極道当時などは兄弟分と食事をしている時でも、ご馳走になれば借りを作る様な負い目も感じ、私は運転や付き人をつとめる自分の若い衆などに「気づかれない様にこっちで先に勘定を払っとくんだぞ!」などと念をついた上で(念を押す事)財布を預けておいたものです。
ところが相手にも気の利いた若い衆がいて、先に勘定を済ませている様な場合も間々あり、そんな時私は、付き人の若い子が「お、おやっさん、すいません…向こうの若い衆が勘定すませてしまっていました」と私に耳打ちしてくるのを楽しく歓談している食事の席でもあり、「うんうん…」と上辺は機嫌良く取り繕ろい聞く振りをしていたものでしたが…
「兄弟!(今日は)ご馳走になりますよ!」と別れて車に乗り込んでからがさあ大変で…笑
「このボケが~!」
「だからテメエはとろいんじゃい!!」
「本当にワレは気の利かん若い衆やの~!」などと…
運転している若い衆にして見れば、前を向いて運転していていいものなのか?
はたまた後ろに座っている私に小突かれる為に頭を差し出さなければならないのか?
(゜д゜三°Д°)
まったくもってこまっていたに違いありません。
しかしながら、そんなお天気屋の私に気苦労ばかりさせられた若い衆達でしたが、私の機嫌を読み取るの事には敏感でもあり…
皆で食事に出かけたアットホームな雰囲気な時など、私が機嫌が良いと思えば「おやっさん、夢の中まで親父(おやじ)に怒られる夢を見て目が覚めちゃいました!」
「怒られると携帯からおやじの顔が飛び出てくる様な気がします。」などと可愛い事を言ってくる人間達でもありました。
その当時極道の縁で私の下にいた人間達は、皆それぞれが複雑な家庭環境で育った人間ばかりでした。
親にはぐれた鳥が鳴く様に…
生みの親の顔も知らずに親戚をたらい回しにされて育った人間や片親の元で寂しく育った人間達…
今思えば、本当はピュアで純粋な心をその瞳に宿した人間達だった様な気がします。
今となっては、彼達が本当の自分のを見つけ幸せに生きる事を祈るばかりです。
賢人は他者の過ちから学ぶ賢い人間に違いありません。
それに比べて愚かな人間は自分の過ちを通して学びます。
時に傷つき、転びもします。
でも、賢人は何が正しいのか知識として情報として知ってはいても、その本質にある虚しさや恐ろしさや悲しみを身体では知りません。
でも、愚者は自らの身体に刻み付け知っています。
傷つく事の痛みを…
人を傷つける事の虚しさを…
不安や恐れの本質を…
虚栄が描く『幻』の顛末を…
こうした事を身体で体得してきた一見遠回りしてきた様なデコボコの人生を歩んできた人間ほど…
「真の自分の生き方」に目覚めた時に、それまで呪ってきた惨憺たる人生の経験や闇の部分さえも、今の自分の為の活きた教材として存在していた事に気づくのかも知れません。
それは霊的教師になる可能性さえ秘めたものかも知れません。
だから恐れる事なかれ!
どんな闇の中や不遇の状況にあっても、自分の歩くところに道は出来る事を信じていく時、必ず道は拓けて行くに違いないのです。
人生に何一つ無駄はない事…
不運と思っていた事さえも、祝福を受けていたに過ぎない事にいつか人間は気づく生き物なのかも知れません。
これより豊饒の女神、吉祥天女の供養法を勤修いたします。
読者の皆様の身体健全・福徳円満を小さな自坊よりお祈りさせて頂きます。
合掌