★バリ島のシャーマン⑤

バリのシャーマンがいみじくも私に言った「あなたは今世は楽しむ為に生まれてきた」という言葉の意味を、帰国後もよく考えた私でした。

「楽しむ為に生まれてきただって?」

私は帰国後、得度受戒→加行→伝法灌頂を経て真言宗の僧侶と為りましたが…

それだけでは何か満たされないものを感じてもいたのです。

気功に始まり、ヒーリングのセミナーに参加したり、人間のオーラやチャクラなどの人体を取り巻くエネルギーにも大変強い興味が湧き、透視や霊能という事も独自に学び始めた時期でもありました。

私は全的に僧侶として生きて行くべきでは?と迷った時でもあったのですが…

得度を経て「引導作法修して良し!」と(葬儀などにおける導師として修法して良いという意味)の免許皆伝でもある伝法灌頂を受け、真言宗阿闍梨(密教僧の別称)と成るまでの間に…

本山の灌頂を受ける我々受者に対する対応など、腑に落ちぬ事もあり…

古くいにしえの昔より、弘法大師空海の教えを連綿と継承し、真摯に真言密教の布教に勤め法灯を絶やす事なく守り抜いてきた美しさはそこに感じても…

管長が変われば体制も変わり、そこに付随して人事も主流派のそれに取って変わるのも習い…
それに伴い反主流派(言い方が適当でないかも知れません)の高僧達は干されてしまう現実と言うもの、大きい寺院の宗派の中には表からは見えぬ内紛を来たし、分裂しているところもある様で…

そうした世俗の争いに似た争いに嫌気がさし、独自に単立寺院を興そうとすれば、大きい宗派の中にはそれを掣肘する動きさえするところがある様です。

大宗派大教団という事を考えた時に、本山寺院の維持運営と云う瑣末な現実が、そこに本来ある光りを曇らせているのかも知れません。

こうした事は、どの世界にもありがちな、世の常とも言える事でもありますが…

私は寺院の敷地に清浄なエネルギーは感じても、お寺を運営しているのは『人間』だという事をまざまざと感じるものがあったのです。

※このアメブロには真言宗の先輩諸兄も投稿されており、皆さん素晴らしい記事を展開し、それぞれが研鑽の日々を送ってらっしゃる方達ばかりです。
私の記事は自分の真実を語っているだけであり、他の僧侶の方達とは何等関係の無い事を明記しておきます。

僧侶の世界は閉鎖的なストイックな世界でもあり、他の僧侶の方に申し訳ないのですが…
ある面では、極道の世界に似通ったところも無いとも言えないのです。

今書いた様な、人の集まるところ組織というものが見せる派閥や不条理な部分というものは、私は過去に随分見てきたのです。

僧侶という生き方が全的な姿勢を問われるものであるなら…
私が過去に生きた極道という生き方も、まさに全的な生き方を問われる世界でもありました。

それはヤクザ教とも言える信仰に近いものがあるのかも知れません。

かたや僧侶の世界は生前葬に等しい得度式を受け、生きた菩薩に成るべく慈悲と仏の功徳を身を持って実践し教え広める生き方…

かたや極道の世界は、親分と呼ばれる人から盃を受けた時から、世間の常識の外で生き…時には修羅にもなれば羅刹や夜叉にもなる、業の深い生き方とも言えます。

一見対極にある、とても交わる部分の見えない生き方なれど…

しかしながら、前の記事でも書きましたが、僧侶の師子相承と云う考え方や修行や戒律と言うもの…

極道の世界にも、修行もあれば、掟や規律も厳として存在します。

仏門に生きる僧侶の世界と、煩悩そのままに生きている様に見える極道の世界を対比する事は、神や仏に対する冒涜では?と思われる方もいるかも知れません…

確かに寺院というものを考えた時に、淡々としたその日常…
その季節事の行事に彩られた美しい日本古来よりの宗教文化を感じます。

そこで日々お勤めになられている僧侶の方達に至っては、荒々しい極道のエネルギーとは皆目無縁の方達ばかりでもあります。

古来インドなどの僧侶の師弟の間では、仏道を究め学んで行く過程で、弟子が師僧に問う事は許されず、一挙手一投足、その呼吸のひとつまでを同調させる事により悟りに至る手法が取られた歴史もある様です。

私にも仏門に縁を持たせて頂いた師僧がいます。
お寺の跡取りの御子息などが弟子入りを頼み込んでも、「よそのお寺へ行くが良かろう」と断る様な方でもありましたが…

僧侶に成る決意をし、師僧に会いに行った私の過去を知った上で「長い間の修羅の行、ご苦労様でした…君は拝む力がありそうだから頑張ってやってみなさい!」と暖かく快諾してくれた方でもありました。

師僧からは、得度から加行に入り行法の所作や印や真言、仏に対する想いの部分などを伝授して頂いたものです。

御自分は大元帥明王を本尊とする立派なお堂も構え、住職に成られている方を含め、たくさんのお弟子さんを輩出されてもいます。

しかしながら、とかく弟子の行動を掣肘するのを嫌い、「大日如来の一員として自分の思いのまま活動して行きなさい」と弟子の自由意志に任せているところがあります。

ある日師僧がポツンと私に「印がどうだ、真言がどうだと言っている内は(神や仏に)辿り着けないぞ、正仙さん…意念、想いの世界が全てだと言う事を忘れない様にしなさい」と私に語ってくれたものでした。

葬式坊主と言われる事を嫌い、加持祈祷で実に多くの難病の方を癒した実例を持つ師僧ならではの含蓄のある言葉でもありました。

そしてこの言葉が私にとって、何よりも有り難い伝授だったのです。

【つづく】

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