人が生きて行く上で、趣味や嗜好から多少の執着やオタク化(笑)するものも、周囲に迷惑をかけるものでなければ、明日への希望や潤滑油となるもので、それはそれで否定されるものではありません。
でも、人間というのは『物は壊れるからしょうがないっしょ、それは寿命だったんだよきっと』などと、人の所有するものの破損やアクシデントに際しては、悟りの賢者の様に軽口を叩くものですが(笑)
でも、それが自分の事になると、自分の大切な物、コレクションや趣味で集めた物などの破損や紛失などに際して、憤懣と喪失感とやるせなさがまぜこぜになり、感情に噛みつかれるままに家族や周囲に『お前達の不注意がこうした事態を招いた、どうしてくれるんだ💢』と、言わんばかりに八つ当たりの投影をして行く傾向などもあり、これは自我(エゴ)の最も得意とするところでもあります。
(周りに落ち度が無い場合でも、物を壊す、あるいは他の事で揚げ足を取り執拗に配偶者や家族を攻撃するなど、そのままDVの習慣化へつながる事も)
それが人でも物でもペットでも、いつまでも自分の側にあるだろう、壊れず劣化せず形をとどめているだろう、自分の所有から離れる事などないだろう、いつまでも生き長らえて変わる事などないだろうと、友人や知人、よその家庭の訃報を耳にしたり、SNSで愛犬や愛猫などよそ様のペットの旅立ち🌈の投稿などを目にしたりしても、その時はドキッとしても、自分の所はまだ大丈夫だろうと💦比較対照するかの様に、逆に安心の種に自らの中で捏造、変換するのも人間の習いと云うもので、自分にも家族にもペットにも所有する何物にも等同に絶え間無く生滅変化のエネルギーが作用している事などすっかり忘れ、いざ、不測の事態を突きつけられると(病気なども)なんで💦俺が?私が?と、青天の霹靂の様な気持ちになり、受け入れる事が出来ず、混乱を生じ、鬱になったり、塞ぎの虫に取り憑かれ病気になったりと、事態を悪化させてしまう事があるものです。
多くの人にとって、愛する者(物)への執着を断つなどと言えば、出家した僧侶でもあるまいし(笑)執着などと言うものも、適度にほどほどにコントロールする事が人生の楽しみであり秘訣と理屈の上では理解しているに違いありませんが、いざ、事を目の前にした時、その人間の内面の成熟度というのはまざまざと表に現れるものです。
私が極道当時なども随分とポン中(覚醒剤中毒者の事「ジャブよれ」とも言った)を見てきたものでしたが、そうした人間の中には、しっかりと身体にクスリを注射する回数や間隔の期間を空けてコントロールしていると、理性や忍耐力を持っており、自分は覚醒剤中毒や薬物依存には決して陥っていないと論陣を張る人間などもいたものでしたが、周囲から見れば、それも目くそが鼻くそを笑うが如きへ理屈をこねているだけにしか映らず、結局はクスリから離れる事の出来ぬそれがクローズアップされるのであり、往々にして挙動不審で末路の見えた覚醒剤中毒の実態があるのを気付かぬのは当の本人ばかりなりと云うケースなども間々、見受けられたものです。
以下はお釈迦様(ブッダ)の智慧の言葉として知られる『スッタニパータ』よりの引用ですが、悪魔パーピマンの言葉など、リア充を目指す私達人間が、日頃より当たり前に信奉し採用している世界モデルの一端でもあります。
スッタニパータより
悪魔パーピマンが言った。
『子を持つ者は、子のことで喜び、牛を持つ者は、牛のことで喜ぶ。
人間の喜びは、愛着の対象から生まれる。
愛着の対象を持たない者は、じつに喜ぶことがない』
ブッダが答えた。
『子を持つ者は、子のことで憂い、
牛を持つ者は、牛のことで憂う。
人間の憂いは、愛着の対象から生まれる。
愛着の対象を持たない者は、じつに憂うことがない』
合掌