☆『我は木偶なり使われて踊るなり』に見るエゴと聖霊・ヒーリング私記

ある方が私の元にセッションに訪れた際に「私なんか年ばかり取って役立たずの木偶の坊と一緒ですよ」と自分を 卑下する様な事を言われた時がありました。
※木偶(でく)木で作った人形
その昔、まだ私が極道の世界に生きた頃…
「我は木偶なり使われて踊るなり」と言う言葉が、何とも皮肉にヤクザ世界を言い当てている様で好きだったものです。
この言葉の木偶とは浄瑠璃芝居の操り人形の事を指しているものの様ですが、極道の世界だけでなく人の生きる無常(無情とも)を現すかの様なシニカルな言葉に思えたものでした。人間とは何か目標とするものに「到達出来た」「成り得た」「掴み得た」と感じる心の充足も束の間で、すぐに飢餓感や罪悪感を生じさせる生き物の様です。
こうした事に対して「だからこそ目標が大事、達成されたらさらに向上を目指して行くのが人生のはずだ!虚無に浸っているヒマなど無い!飽くなき追求それが人生だろ、生きるって事なんだろ!」と言う見方も成功哲学などに根差してあるかも知れませんが、こうした適者生存的な旧態依然の信念だけでは、心の安寧や平和に至れない事は今や多くの人が気付く時代でもあります。
私は紆余曲折の果てに裏社会を抜け出て密教僧侶ヒーラーとして歩む様になったものですが、この「我は木偶なり使われて踊るなり」の『木偶』には大別して二通りの意味が用意されている様な気がしたものです。一つはエゴ(自我)の木偶としての生き方、もう一つは聖霊(ハイアーセルフ)の木偶の生き方があり、様々に複雑に枝分かれしている様ではあっても、究極このどちらかが私達人間が選び取る事の出来る「木偶の形」であると今では確信に近いものがあります。
※ハイアーセルフ(聖霊)とは誰しにもある内なる神、教師、高次の自己とも言える存在で、過去世、未来世の全てに渡る私達人間の課題を知りサポートしている。
かたやエゴの木偶として生きる時、その顛末とでも言うべきモデルはあまりにも多く見る事が出来るものです。思わず目を疑う様な芸能人や著名人、政治家による世間を騒がす事件や転落の軌跡、そのベースにある傲慢さや過信など、簡単に云うと自己実現や成功など情熱やロマンスなど一晩の夢の様なご褒美を散りばめて「表に真実ありき」の旅を続けさせるのがエゴの意図するものであり、別の言い方をするならば「肉体こそが全て」と私達に刷り込んでしまうのもエゴの働きと言うもので、目に入る人や物など、常に比較対象、価値判断から生じるジャッジや裁き、競争や対立そして最終的には争闘を採用するのがエゴであり、副産物の様に嫉妬や不信、猜疑心をもたらし、心の安寧や平和、真の覚醒からは遠ざけ様とする働きさえあるものです。こうしてこの地上に対する執着を生じさせ、そうした事が輪廻転生を繰り返す原因としてさえある様です。
刷り込んでしまうなどと言うと…何かそうした謀略めいた事など国家のプロパガンダや世界に搾取のシステムを敷く一握りの巨大財閥や闇権力を指すのが本当ではないのか?と思う方もいるかも知れませんが、そうしたものも一段高いところに立って「エゴの振り子、触手の現れ」として見るべきで…正義や大義名分さえ用意して個人攻撃の狼煙を上げる様に仕向けるのもエゴと言うものであり、これは平和運動や宗教間の争いなどにも見られる事でもあります。
平和運動や集まりがいつの間にか特定個人の糾弾や攻撃に形を変えてしまうのもエゴの為せる技と言えるのではないでしょうか。
かと言ってエゴに確たる統一理論があるわけではなく、分裂を繰り返し(簡単に言えば人の不安の増幅も)強いエゴの振り子の振動数が弱いそれを淘汰して行く闘いが繰り広げられて行くだけであり、常に強者と弱者、成功者と破綻者と言う世界モデルが疑いなく採用される様にエゴは幻惑してくるものです。
勿論、私達が生きて行く上で思考そのものがエゴであり、食を得て行く為には多少の価値判断は避けられずエゴの頭を撫でながら生きて行かなければならない部分は当然あり、それは何ら恐れるべきものではないのですが、気付きが進んでくると何が自分の内面、心の平安から遠ざけるエゴの侵奪であるかがハッキリ分かる様になってきたりもします。
簡単に云うと一線を越えてはならないボーダーラインの様なものとそれは言えるかも知れません。
それに比べて聖霊(ハイアーセルフ)の木偶として生きる事は、心の平和安寧が伴う事でもあり、結局私達人間が千にも及ぶと言われる輪廻転生と言う壮大なトリップ(幻想世界)で目指すのは、『聖霊の視点、視座で生きる事』この一点につきるのかも知れません。この超リアルに見える私達人間の生きる世界、頬っぺたを叩かれれば痛いし怪我をすれば血も流れ、愛する人もいれば憎い人もいる、貧困の差も歴然としてあり、毎日のニュースから貧困や紛争、事故や病気、暴力や殺人の文字が消える事の無いこの世界…でも、それらの事はこの世に生まれてくる時に神ではなく「エゴとの契約」によってシナリオがすでに書かれている事だとしたらどうでしょうか?日本にも世界にも神の怒りが天変地異や地震、災害などの事象に影響を及ぼしていると言う考え方が古来より根強くあったり、またスピリチュアルでも戦争や殺人にさえも神が何らかのメッセージを携えて微笑んでいると考える向きもあるもので…
元極道の私などは、スピリチュアルな学びを深めて行く内にこうした神仏の概念とでも言うべき事に???が点きはじめたもので、これでは「笑顔とゲンコツ」「握手と恐喝」「マッチポンブ」「三味を弾く」言葉の表現はどうであれ、背反する二つの論理をその時々うまく使いわける裏社会の住人同様、と言うよりもそんな信頼の置けない神ならば極道渡世で親分と呼ばれる人間の方が不健全ではあってもはるかにマシではないのか?と思う様な時があり、答えを求める様な思いの日々が続いたものでしたが、そんな私に明確な答えをもたらしてくれたのが「神の使者」(ゲイリー・R・レナード著)続いて読んだ「奇跡講座」(ヘレン・シャックマン著)でした。
この本の解説だけでも長文になるので控えますが(笑)「この世界が幻想であり他者もいなければ宇宙も無い」とイエス・キリストがこの世界の実相を看破し「赦しの実践」を説く内容で(聖書ではありません)制限ある私達の見方を離れ、誰しにもある聖霊の視点視座に沿って生きる事をすすめるその内容でもあります。
他者がいないとか幻想などと聞けば、一般の方からすれば責任の所在の無い何とも逃げ口上の様な響きに聞こえるかも知れませんが、そうではなく、他者がいないと言う事はイコール人に対して行う事、人に対して投影される見方と言うものが、自分のアイデンティティーさえ決定している事など自分発信の世界であると定義し、マインドに巣くうエゴから脱して葛藤や恐れを手放す珠玉の教えが見事に展開されており、奇跡講座などはテキストとワークブックに分かれているものですが、初め目を通した時など仏僧でもある私などはキリストの言葉が書かれているそれでありながら、同時に釈尊(ブッダ)の言葉の様にさえ思えたものです。
人は瞑想をはじめてみたりする時、心身の安定とか心の平和とかそれぞれに動機があったりするものですが、本当は深いところで内なる教師ハイアーセルフとの繋がりを得て心の安寧を得たいと言う深い欲求が起因している場合も多い様です。
これはスピリチュアルを志す動機にも同様のケースをお見受け出来る時があります。
ハイアーセルフは現世利益(これも幻想の内と知る)や開運、不倫成就など(笑)都合よくは働いてはくれないかも知れませんが、私達の全てを知り、思うよりも早く私達の意図しているものを察知してメッセージ(その人に応じて)を発し、時には警報や訂正、代案さえ発してくれる存在で、私達人間が古い時代からシンボライズした宗教上の神やアセンデッドマスターなど、輪廻転生により生まれた国々やその時々人との関わりや信仰の都合などから崇められたシンボルや宇宙の存在とは違い、過去世から未来世に至るまで共に歩む「全なる神の真のパイプ役」であり、内なる祭壇に住まう神であり教師である事に於いて比肩するものは無いと断言出来ます。
(キリスト・釈尊共に聖霊の代替に相当する存在と認識しています)
内なる神ハイアーセルフは私達の心の安寧や平和にだけ注意を払っているのかも知れません。エゴから生じる恐れが嫉妬や猜疑心、憎しみや暴力(言葉も)へと分裂させぬ様、毎瞬その人に応じたメッセージを送ってくれているもので、それは『心の平安こそ宝』とする生き方へ誘うものでもあります。心の平安などと言うと何か地味で何かの訓話とか交通標語と代わり映えしないのでは?と思う方もいるかも知れませんが、心の平安無くして真の豊かさなどあり得ない事、裏社会でエゴに呑み込まれ滅ぶ様に消えて行った人間の顛末など幾多も見てきた私にとって分かり過ぎるほど身に沁むものがあります。
冒頭の、「我は木偶なり使われて踊るなり」の言葉に極道当時の若き頃、自嘲の意味を込めて付け加えた言葉があります。
我は木偶なり使われて踊るなり
この木偶は
飛んだり
跳ねたり
転んだり
そんな木偶を見て
誰が笑うぞ
誰が笑うぞ
と、そんな内容でした。当時はスピリチュアルな素養などありませんでしたが、でも今思えばこの笑うぞの主はエゴ(自我)そのものである事を言い当てている様にさえ思えるものです。
どうせ何かの木偶になって生きるなら聖霊ハイアーセルフの木偶として生きる事をオススメする愚僧であります。
                        
                     合掌         
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