※写真は最近写した龍雲です。殆ど自宅上空のものが多いです。
龍神雲と言えばUFO同様、人によって可視化出来る出来ないと言う事もあるのかも知れません。
先日、出版関係の方達とお話しする機会がありました。その時にもお話ししたのですが、私の場合「上を見てみな!」とばかりに空に注意を向けられる時と言うのは、龍や鳳凰の形をした雲が現れている場合が多く、雲の中にその形を探して追うのではなく、龍の頭なら頭に、胴体なら胴体にまっすぐ目を向けられていたりもします。
龍と言えば…
現在、スピリチュアル関連の書籍の中で、神社開運、龍神を扱ったものなどに人気が集まる様です。どちらかと言えばコミカルタッチに人格化された親しみやすく等身大な日本古来の神や龍の姿が流行りの様でもあり…人が神に親近感を覚えると言うその一点だけを取って見ても、それは良い傾向であると言えるのかも知れません。
でも、密教行者でもある私などは、龍、龍神と言う時、空を覆うかの様に現れる壮大な龍の姿にこそ惹かれるものがあったりもします。
ある時売り出し中のヒーラーで、修験系の行者でもある方より「刺青を入れた人間は殆どが龍族です。正仙さんには、我々龍族の輪の真ん中に立って頂いて、一緒にやっていきませんか?」とお誘いを受けた時があったものです(笑)でも、こんな言葉を真に受けて、自分に力があるものと過信し、人を率いて行く様なつもりにでもなった日には私もそこまでの人間…笑
どんな世界でも、エゴと言うのは良くも悪くも「あなたは特別だ」と「特別性の幻想」を見せるのが好きなもので、それはスピリチュアルな世界に生きる人間であろうが、宗教家であろうが、瞑想を実践する人間であろうが、成功哲学を掲げる人間であろうとも、情け容赦ないものがあるのです。
ちょっと人より高みに立ったつもりで、これにウカウカ乗ってしまうと…都合よく自分の半生や物語りを改竄する都合にさえ迫られる様になり、人生の節目で自分に諫言してくれたり深い気付きをもたらしてくれた人との出会いは封印し、自分は〇〇の神が守護する特別の存在とPRする様になったり、万事、都合の良い様に置き換えて行く様になり、最後は持ち上げるだけ持ち上げられた挙げ句、ビシャリと叩き潰されてしまう「エゴの台本」と言うものは、芸能人など、ある面「他者に自分の人生を晒すカルマを引き受けている人間達」の転落の軌跡に見られるばかりでなく、人の心やエネルギー(氣)を扱うスピリチュアルな世界の住人に対しても等同なものがある様です。
アジアの中でも特に日本は龍との結び付きが強いと言われる民族ですが…
最近の神社開運関連の本に目を通して見ると面白いもので…
「神社には神がいるがお寺には何もいないし感じない」と言う意味の事が書いてあると思えば…
「四天王(毘沙門天など)には結界のパワーがある」など一部容認とも思える事が書いてあったり…
かと思えば…「南無大師遍上金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と私達、真言僧が御宝号(ごほうごう)と呼ぶ真言宗の開祖弘法大師を讃えるお経が宇宙との繋がりをもたらすものと書いてあったり…
はたまた「お坊さんは悟りを得る為に修行に明け暮れているので龍神とタッグを組む事は出来ない。ワクワクしている人間を龍神は好む」と言う様な事が書いてあったりと…
経典なき宗教と呼ばれる神道が、神社などのパワースポット巡りや、古事記や日本発祥に関わる神話を持つ日本土着の信仰でもある事から、スピリチュアルな世界に生きる人のウケもよい様で、宗教イコール洗脳、自分で考える事の出来ない人達と見る向きもスピリチュアルを自認する一部の人の風潮としてある様で、そんな優越に似た感覚をくすぐるのが、山や湖の畔など、自然と調和する場所に建てられ、ナチュラルを感じさせる神社の神々だったりもする様です。
そうした開運神社関連の本を読むと、お寺の事はどこかしら副次的な紹介、内容にとどめてあったりで、明治以降の国家神道擁立に伴う神仏分離、廃仏棄釈の名残をそこに感じないわけではありません。
こうした本を読んだ読者の方からすれば…
「天照大御神(アマテラス)はいても、大日如来はいないのか?」
「スサノオはいても不動明王は存在しないのか?」
と言う様な短絡的な疑問にもなりかねず、現に私の元へセッションで訪れた方などより同様の質問をされた事も度々あったものです。
ヒーラーとしての観点から見ても、この三次元の世界が幻想の場である事は間違いのないところの様で…
人はこの娑婆世界で生まれる前より誓ってきた、見たいものを見、愛すべきシンボルを愛しているに過ぎぬ生き物なのかも知れません。
(シンボルには神や仏、愛する人なども含む)
日本や世界で愛される神や仏、天使の姿と言うものも、その民族の特性や宗教観を反映していたり、長い歴史の中で位置付けが変わったり、特性や効験、得意分野が付加され、また様々なそれを裏付けるかの様な奇憚や奇跡や神話、言い伝えが礼拝、信仰する人々の信念を尚更に強化し、そうした長い間の拝み祈る人々の想念の蓄積が、異次元に個性や知性を持ったヒーリングの磁場を形成していると言うのが、神仏の実態としてある様です。
私も遠隔加持の記事をよく載せたりしますが、加持祈祷と言うものも、如来や明王、毘沙門天や大黒天などに知られる天部の仏など、特性個性を持つ仏の形容を持つヒーリングの磁場にアクセスし導引し一体となる事で対象へヒーリングを成就し様とするもので、こうした事から私は加持祈祷を密教ヒーリングなどと呼んだりもするのですが、弘法大師空海の伝えた加持祈祷法はとても洗練されたヒーリングの技法である事を感じるばかりの時があるものです。
神社の御神前で神官が祝詞を奏上しご祈祷するのも同様で、アマテラスやオオクニヌシと言うヒーリングの磁場にアクセスし、願主の方の開運と言うヒーリングを成就せしめ様とする一つの形態でもある様です。
(神官や神職の方は間違ってもこの様には考えないでしょうけども…笑)
今の時代の僧侶と言うのは釈迦の生きた原始仏教教団の頃とは訳が違い、様々な形で社会的な活動やアプローチに取り組んでいる方も多く、声明ライブなどもよく知られる様になりましたが、独自の音楽活動や創作活動など、現代にマッチしたワクワク感満載の活動をしている御僧も多いものです。
言わんや坊主が龍神とタッグを組めぬなどと書かれた日には、他宗派の事は知りませんが、仏を動かす意念を加持祈祷と言う想いの世界に体現する密教僧にとっては笑止な事と思われる方も多いのではないかと思います。龍上観音の姿にも知られる様に、本来龍は神仏を運ぶ眷属としての位置付けであり、確かに龍神を本尊とするお寺は見当たりませんが、真言密教では請雨法や八大龍王法として龍神を招請する加持祈祷法があったりで、行法の中にも度々龍神の観想が出てくるなど、日頃より龍神との繋がりを感じている行者や密教僧はとても多いのではないでしょうか。
でも、これさえも幻想の世界である三次元対応の神仏の姿と心得るべきなのかも知れません。
神社開運関連の本の中にはこの龍神に代表される神社の神様が、その時々の人間の行いから半ば愛想を尽かし離れて行ってしまう事が書いてあったりしますが、いつも完璧と言う訳にはいかない感情の生き物人間の上げ下げをとらえて付いて見たり離れてみたりされたのではとても信頼出来る神の姿たり得ないと考える人がいても不思議ではありません。
こうした寺社仏閣の神や仏は月日の流れと共に他の神や仏に取って変わられてしまう傾向と言うものもある様で…
他の人が効験抜群と推してくる神や仏の姿にその信ずる位置を譲り渡してしまったり、清浄と言われる評判の神社の神に信仰の対象を心の中で変換するなど、比較対象を生んだりと流動的な側面もあるもので、人によっては安息をもたらす不動の神となり得ない事から、ちょっと不測の事態が生じると自分の参拝や信心の在り方が悪いと罪悪感を募らせ神社やお寺に足を向け、しばらくは安心した様な心持ちでいるとまた電池切れの様に罪悪感を浮上させ、たくさんの寺社仏閣を訪れなければ気が済まないと言うループにはまってしまっている人も多かったりもするものです。
これも複雑に屈折した心の闇を抱えやすい現代人の心の浄化法として一定の効果を上げる方法ではあるのかも知れませんが、これでは恒常的な心の平安を得る事はとても出来そうにありません。
私などは神社やお寺を訪れる時、いつも聖霊(ハイアーセルフ、ホーリースピリット、内在神)の投影と思いご挨拶をします。人間、輪廻転生と呼ばれる壮大なトリップの中で色々な国や時にはよその星にも生まれたりを繰り返してきている事はよく知られる様になりましたが、イギリスに生まれればイギリスにある神を信仰し、メキシコに生まれればメキシコの神を信仰し、ニカラグアに生まれればニカラグアの神を信心するといった具合に、その時々礼拝したり祈りを向ける神の姿、信ずるシンボルと言うものは、変遷を遂げていっていると言うのが本当のところの様です。
この幻想の世界に有効な神として感謝を捧げ、寺社仏閣の御神氣を感じ、周りを囲む自然を楽しむ事多いに結構な事だと思いますが、本当は神社の総本社もお寺の総本山も自らの中にある事を忘れたくないものです。
神社などに参拝した際は、自分の住所や氏名などを御神前で心の内で名乗る事などがよく言われたり、大きな神社ではドレスコードがあったりと、なかなかウルサイものがあったりもしますが(笑)元極道の私などは、神様の御前で住所氏名を名乗ると言う考えに初めて出くわした時などは、不謹慎ながら、まるで刑務所で他のヤクザを目の前に「私(わたくし)稼業名乗りますは云々…」と家名(組織名)や自分の名前までを「稼業名乗り」と言う昔の渡世人の様に仁義を切って挨拶した事などを思い出したものです(笑)
でも、誰しにもある聖霊は名前を名乗る必要もなければ住所を告げる必要もない存在で、願うよりも早く、あなたが何を意図しているのかを全て察知しており、つねにあなたの感情に注意を向け、良い時も悪い時も、山の時も谷の時も何ら条件付けで変わることなく側にいてサポートする存在です。生まれてこのかたは勿論、500も1000もあると言われる人間の過去生の全てを知り、カルマや経験する出来事を統括する存在で、神とのパイプラインを果たし、最高の友人、最高のプランナー、最高のスポンサーとさえ言える存在かも知れません。
「人生をよく楽しみ、そしてまんべんなくよく赦せ!」とそんなメッセージをその人に応じた形で伝えてきているのかも知れません。姿形は無いと言われる聖霊ですが、時にはその人の信ずる神仏や天使、アセンデッドマスターの姿として現れる事もある様です。
よく聖霊(ハイアーセルフ)との繋がり方が分からないと言う方の質問を受けたりしますが、目を閉じ軽い瞑想状態を作り、頭頂のチャクラ(第7チャクラ)から天に向けて光のポールでもコードでもいいのですが、140センチほど頭上に光の球体をイメージし、これを聖霊と見立て、そこに伸ばした光のポールを接続し、ゆっくりと深呼吸を繰り返してリラックスしたならば、その日にあった傷付いた出来事でも、未消化な対人関係に感じている疼きでも、手切れの金をくれない男を罵る言葉でも(笑)職を失う事に対する恐れでも、病気に対する不安でも、言い訳がましい人を憎む気持ちであろうとも、包み隠さず、ちょっと自分よりレベルが上の友人にぶちまけるつもりで語りかけたら良いのです。
そこに、言霊に気を付けなればならないなどの制限はなく、
ただ…「その状況から癒される術を教えてください」。
「今私にある恐れを癒してください」でも、
「良い人間関係を築く為に私に出来る事を教えてください」でも、あなたの言葉で正直にといかけたら良いのです。
すぐに微かな閃きや反復する思いの様に答えが返ってくる時もあれば、翌日や後日に答えがもたらされる時もあったりします。時には耳を塞ぎたい様な自分に訂正を求めてくるかの様なメッセージと言うものもあるもので、こうした場合、具体的に相手との和解をはかる上で、こちらが謝るアクションを心の声として提案してくる場合もあり、こうした事に抗い自分を閉ざしてしまうと、エゴに幻惑されて聖霊の声は聞き取りづらいものになってしまいます。
聖霊は言葉でゴニョゴニョ語るのではなく、画像や感覚に訴えてくる事も多いもので、家族間での会話や友人との何気ない電話のやり取りにそれを仕込む事もあれば(笑)TVで見る俳優のセリフや、新聞や雑誌のタイトル、文章の一節にもそれを見せてくる事も。その他エンジェルナンバーでもよく知られる目にする車のナンバーの数字や時計の時刻にもメッセージ性を現したりと、あらゆる角度からメッセージを与えてくれていると言うのが本当のところなのです。
こんな何物にも代え難い聖霊がいついかなる時も共にある事を知り、その上で寺社仏閣に詣でる時、パワースポット巡りに飢える気持ちもなくなり、尚更に神社の神様達も、お寺の仏様も良い働きをしてくれるかも知れません。
合掌