※松山出張セッション&トークライブを終えて②の続きです。
一部講演では話していない内容も追記させて頂いております。
元極道から僧侶と言う時、やはりその話を聞きにくる方達は映画やドラマの中でしか知らないヤクザの世界やそこに生きる人間の生態に強い興味を持ち訪れているのかも知れません。
でも、こうした場に於いては、自らが過去にいた世界でしでかした武勇伝のお披露目の席にならぬ様、話の起承転結には気を付けているもので…この日の様に約45分程度の持ち時間ですと、どこまでの内容をカバーし、開陳すべきかの判断も当然必要になってくる事でもあります。
でも、そんな短い時間の中にも、一々話の構成など考えずとも会場に訪れた方達の顔ぶれを見ている内に、自然と言うべき事がポンポン口をついて出てくる事に於いては毎回変わらぬものがあるのかも知れません(笑)不思議なもので、その場に居合わせた方のテーマにフォーカスする内容を話している様な時も多く、後日になって驚きのシンクロニシティがあった事などをご感想としてお客様より頂く場合もあったりします。
この日は幼き日の回想から話し始めた私でした。
東京は深川で生まれ、四畳半一間のアパートで両親と過ごした幼い頃。川から聞こえるポンポン船のエンジンを吹かす音や、材木問屋の多かった木場が近かったせいか、むせる様な材木の匂いがあふれていた事なども幼少時の記憶にあるものです。
人情はあるものの、酒乱の父親の暴力に泣かされ続けた母親の姿、その画像は幼少時より影(シャドウ)として私に刻まれ、小学生の頃に年上の兄がいる事を七光りの様にチラつかせる同級生からのイチビリ(イジメ)なども体験し、そうした諸々の事から脱け出し反発するかの様に暴力を選びとった瞬間、その出来事…中学校に入りツッパリ全盛の時代を背景に、ドロップアウトが始まり、柔道もかじっていた私はケンカも負け知らずで番長に、卒業後は一時就職するも、すぐにやめてしまい、仁侠系右翼団体の構成員になった事、そして十代後半の殆んどを学園や少年院で過ごした事なども話したものですが、札付きのワルが入る特少(特別少年院の略)を出院した人間はハクがつくかの様に裏の世界で金筋(きんすじ)と呼ばれ、同世代の人間からは一目置かれる傾向のあった事や、初等、中等、特別と少年院の入退所を繰り返す事を「エリートコース」と呼び、憧憬する人間さえいた事などをお話しすると、犯罪傾向をエリートと対比している事が意外だったのか、会場の皆さんの間からはどよめきが起きたものです。
傷害事件などで逮捕された私は、それこそ仏教と名の付く篤志家の運営する学園に入所したものでしたが、今思えばこの時すでにそれから遥か後になる仏門入りも示唆されていたのかも知れません。
また少年院や刑務所の犯罪学校としての一面にも言及し、「朱に交われば赤くなる」の例えの如く、更正を決意することの難しさ…十代の内に何度も少年院に入所する人間など、その後に於いて再犯に次ぐ再犯を重ねる人間も多く、あまりにも施設慣れしてしまったおかげで、若くして娑婆(シャバ)よりも塀の中が良くなってしまう人間などもいたものです。
刑務所や少年院と言うと、塀の中で社会から隔絶されて規律で締め上げられ、没個性を強いられ、灰色の地獄の様な世界を連想される方も多いかも知れませんが、前科持ちである事から仕事に就けなかったり、社会に順応出来ない人間にとっては(年老いた盗犯なども)贅沢は出来ませんが、受刑者として、日に三度の食事や衣食住は保証されている事でもあり、塀が社会から守ってくれていると言う、皮肉な働きさえもたらしているもので、こうした事から出所が近くなると恐怖が募り、中には出所したその足で、警察署のガラス窓を石を投げて割り、『刑務所に戻してくれ!』と懇願する人間がいるのも事実なのです。
特少から出た私は右翼団体に戻り、成人間もなくして建設会社に舎弟分と頭から逆さに鶏を入れた糞尿の入ったバケツを撒き散らし逮捕された顛末を話すと再び会場からは笑いが…
でも、この事件で少年刑務所に服役している時に私が所属していた右翼団体は極道に衣替えをしており、出所後、大組織を二つに割っての抗争の渦中、極道の世界に身を投じる事になった私でした。
この頃は、表のパワーとでも言うべき力の世界に傾倒していた私でもあり、学歴不問の裏社会で這い上がりたい一心で、対立する組織の幹部のタマをあげる(タマをあげる・殺害する)べく、自ら望んでヒットマンとして西に東に潜伏していた時期さえあったものです。
でも、その後に於ける上部団体の解散やその後移籍した組織で垣間見た極道世界の諸行無常と言うもの…
人情や胆力はあっても、極道にありがちな愛人を作り浮気をした事から、姐さんと呼ばれ、自らが服役している間も内職やパートに出てまで子供を守り待っていた本妻の女性がショックを受け、強い葛藤から心を病み、首吊り自殺で死んでしまった事。それを合図の様に、博打で金を使い果たし、最後は詐欺師にとどめを刺されるかの様に、有り金全てを騙し取られ、その世界の兄弟分と言わず誰と言わず、顔をみれば無心をする事から誰からも敬遠される様になり、借金に次ぐ借金を重ね、自らを追い込み、その世界から消えて行かざるを得なかった方の顛末…
その後の私自身も、大組織の先兵を気取り、対立する組織の縄張りに自らの組事務所を出して好戦的な構えを見せていても、内に外に油断ならぬ状況が常にあり(これも自ら生じさせていた事ですが…)それこそ若い衆に囲まれて綺麗な女性のいる店で酒でも飲んでいれば一時は良い気持ちでいられたものでしたが、酒を飲んでいても、トラブルや上部団体からの連絡は時を選ばぬものがあり、殺して酒を飲み、酔えぬ自分、ある面、心理戦から解放されぬ自分をいつも感じていたもので、通報をデッチ上げているとしか思えなかった、不定期な警察の度重なるガサ入れ(家宅捜索・ドサ入れとも言う)にも神経を尖らし、極道当時と言うのは、枕を高くして寝たことが無いと言うのが本当だったかも知れません。
話は変わって…
「正仙さんは子供の頃から何か霊的な能力を持っていたり見えたり(霊が)したのですか?」と、実はコレ、よく聞かれる事でもあります(笑)
私は子供の頃から直感が強く、大人と同じ空間にいる様な場面でも、口と腹が違う大人の考えがチカチカと(こんな感覚)分かってしまう様な時もあれば、胴体からまるで顔が浮き上がっているかの様な不可解な姿に人が映る時、数日後にその方が亡くなってしまったり…
(これは現在も変わらぬものがあります)小学校の時なども、クラスの隅で小声でなされるイジメの相談が誰を対象にしているのかなども分かってしまう時があったもので、こうした自らの繊細な能力とでも呼べるものは、極道当時にも持ち越され、有利に働く時もあれば、自らを傷付ける時もあり、大鉈で一刀両断に出来ない未消化なものを時にもたらし、当時私の信ずるサムライの世界モデルに合致しない事から、嫌で嫌で仕方ない時があったものです。
極道当時のスピリチュアルな軌跡として、若き日に多量の覚醒剤を注射し、死線をさ迷った時の幽体離脱の体験、また最後の服役となった際の独房での霊的な体験や、枕元に何百体もの仏像と共に現れた父親の姿、その後の私自身の将来を啓示していたかの様な夢(911テロの映像も)そして「神との対話」を読んだ事から生じたスピリチュアルな気付き、独房でたったひとつの娯楽のラジオさえ切り、精神世界やスピリチュアルに関連する本を貪り読んだ日々…
かと言って、出所後、真っ白になって現在の道を歩み始めたのではない事もお話しした私でした。
長い間信じてきた裏社会の信念、行動原理にしがみつく気持ちには強いものがあり、スピリチュアルな気付きが芽生えてきても、まだ部分的に肯定しているレベルに過ぎなかったもので、それでも組織暴力の論理に違和感を生じ始めていた私は、刑務所を出て間もなく組織を離脱します(破門)
でも、結局はヤクザの看板が無いだけのアンダーグラウンドな世界の住人に変わりはなく、闇金の用心棒から、偽物のバイアグラの詰まった段ボールを車のドランクいっぱいに積んで夜の街を疾走したり、殺人以外は何でもござれのそんな状態だったのです。自然とそんな私の下には「オヤジ」や「アニキ」とその世界の呼称で慕ってくる人間も集まる様になりましたが、一度スピリチュアルな気付きを埋め込まれた私にとって、それもいつまでも続く夢ではなかったのです。
今思えば、私が極道の世界に入った当時から、半グレの生活をしている時まで関わりのあった恩ある方の死から現在へのシフトがスピードを増して行った様な感があるものです。
それからしばらくして、覚醒剤の打ち過ぎで死んだ舎弟分、その人間が死んだ時刻に私も心臓があぶり出し、「アニキーッ!」とその人間の叫ぶ声と共に目が覚めた直後、この人間の死亡の連絡を受けたものです。
私はこの頃には自然と真言宗や天台宗などの密教寺院の護摩供にも惹かれ訪れる様になり、同時に人を癒すエネルギーワークにも興味が募り、気功のクラスにも通い始めたところ、「あなた、すでに丹田からとても強い氣が出ていますよ」と驚かれたものでしたが、やがて私は指導員になる手前のところで気功からヒーリングへと移行して行くのですが、同時に僧侶になりたい欲求が日増しに強くなり、単身、師僧と見込んだ方の元を訪ね身体にどっぷり刺青の入っている事や自分の素性を嘘隠しなく話したものでしたが…
「長い間、修羅の行ご苦労様でした」と言われ、出家得度を快諾してもらった事は今までもブログなどに書いてきた通りでもあります。
また、私より年上の舎弟分が獄中で死んだ時、本来得度だけでは引導作法、葬儀の導師をする事は許されないのですが、この時は、私のゆかりの人間の葬儀だからと師僧に了解を取り付け、まだ覚えたての般若心経を引っ提げて、私なりの葬儀の行法を、それこそ、法衣も着ずに黒背広に黒ネクタイの姿で執り行ったものでした。
棺桶に入った舎弟分の姿、若き日から塀の中と娑婆を行ったり来たりの人間でしたが、肝不全で死んだ黄疸で小さくしぼんだかの様なその顔を見た時、この人間から「アニキ、いつまでとどまっているんですか?いつになったら本当の自分の道を歩むんですか?」と突きつけられている様な気持ちになり、この時に最後の砦の様なものが自分の中で崩れ落ち、裏社会との訣別に否応なく押し出される感があり、当然それはそれまで私を慕い付いてきた人間との別れも意味している事でした。
この時期、有り難い人との出会いも続き、アメブロを開設する事も勧められ、日陰育ちの私にとって多くの人に露出される文章を書くことに戸惑いもありましたが、これも正真正銘の素ッ堅気、密教僧侶ヒーラーとして生きる決意の現れとして2010年の2月から書き始め、現在に至っています。
(読者もお陰さまで1200名を超えました)
魂の闇夜の季節と言うもの、何をどうとは書きませんが、全く揺り返しがなかったわけではありませんでした。でも、それも自らが刈り取るカルマの現れだった事、自らの罪悪感を手放す象徴だった事なども、気付きと学びを続ける中で身に沁む様に分かったものです。
京都の歴史ある寺院にて伝法灌頂(でんぼうかんじょう)を成満し、晴れて真言僧となった私でしたが、密教僧とヒーラーの両立、それまでとは全く違う「箸と茶碗の持ち方」を模索し始めた私にとって、答えの出ない日が続き、ズボンのポッケに千円や二千円を持って、山手線に乗り、ぽつねんと車窓から見える風景を、眺めていた時があったものです。「坊主だヒーラーだっていったところで、俺はいったい何処へ行こうとしてるんだろう?」そんな感慨もありました。
でも…お年寄りの無料でのヒーリングなどを始めた時、「ああ、暖かい、本当にありがとうございました。楽になりました」。とお年寄りから合掌された時、私は家に帰ってきてから涙が流れるのを禁じ得なかったものです。これがヒーラーとしての起点だったかも知れません。
こうして、講演を終えた後は、会場にいらした皆さんよりの質問に答える形でのトークライブが始まりました。講演とは違い、グッと皆さんがリラックスしている雰囲気が分かる中、矢野真弓さんが読み上げてくださる会場の皆さんからの質問も、その道を知らないからこそなればのものや、おひねりの効いた質問、私のカレーの嗜好の順位を問いかけてくるものまであり(笑)講師である私も玄龍さんも思わず笑いが出てしまう場面も多々ありました。
こうして講演&トークライブを終えた後は皆さんとの楽しい懇親会がありました。深夜まで及んだ異様な盛り上がりの中、それでもやっぱり前日に続きラーメンを食べてホテルに帰った私と玄龍さんでした(笑)
( ̄¬ ̄)( ̄¬ ̄)
つづく