先日、ある方が「宗教もスピリチュアルも神道や仏教の神や仏もまやかしの神の様で信じられません、でも、愛は信じられる様な気がします。そんな私が心の安定を得るにはどうしたらいいのでしょうか?」と私に聞いてきたものです。
私はその方に「それでは〇〇さんにとって、愛が神なのではありませんか?それでは出会う全ての人の中に愛を見出だしていかれたら良いのではないでしょうか?それが出来たなら別にスピリチュアルだとか、あなたが言う様に宗教に詳しい必要など全くないと思います」とお答えした私でした。
別に肩肘に力を入れ「愛、愛、愛」と、人を眺める必要はありませんが、出会う人の全ての中に愛を認める習慣は目を開けながらにしての瞑想法でもあるのです。また、愛を自分の信ずる釈迦やキリストの様なアセンデッドマスターに置き換えても良いのですが、これがシンプルでありながらどれだけ難しいか、自分が日常どれだけ人を色付きのフィルターを通して見ているのかが逆に自分に示される場面が必ずあります。
こんな時「別に自分が抗う事や抵抗を感じる事をする必要などないんだ、豊かさとか楽しくワクワクする事が人生だって誰か言っていたじゃないか…」と回れ右をする理屈を自らの中に生じさせるのも人間なのです。
勿論それも自由、その人に合う形の学びはきっと用意されているに違いありません。でも、安心(あんじんともよみます)心の平安の面積をグンと日常に反映させたいと思ったならば、必ず人生のどこかのタイミングで自分に向き合う「玉ねぎのかわむき」をさせられる様な気がしてなりません。
波瀾万丈である必要など全くありませんが、あまのじゃくな私は、人生にもがきを経験している人が好きなのかも知れません(笑)
これより夕刻の勤行です。
世界の生きとし生けるもの全てが幸せであります様に
合掌