★脱スピリチュアル宣言も流行りの内なのか?③…若き日の幽体離脱体験

10416569_10152986372898098_615320117.jpg

最近は、この世界のすべてが夢や幻想であると説くスピリチュアル関連の書籍も増えてきた様です。

中には人生は幻想なのだから自分に正直にエンジョイし楽しめば良いと言う論調のものもあれば、引き寄せの法則に見られる様に、思考による現実化の法則を用いて自分の人生を創造する喜びを説いているものなど、色々なものがある様です。

神や魂など、スピリチュアルな事に興味の無い人でも、死んだその先には、日本などでは「三途の川」でも知られる「あの世」と呼ばれる世界への移行があるのではと漠然とながらも信じていたりするもので…
肉体を持った人間にとって、死は誰しも避けられぬものとの認識はあっても、死後の経過やたどり着く場所なども、臨死体験をした人などが語る死後の世界などに見られる様に、世界各国によって、宗教観や民族観さえ反映しているかの様に多様性のあるものであり、一般の方からすれば、どこからが天国でどこからが地獄なのか曖昧模糊としたものに感じられ、そうした事が、未知の世界への恐れと重なり、なおさらに死後の事など考えたくも触れたくもない、忌むべきものに拍車をかけるものがあるのかも知れません。

私がまだ極道の世界にいた成人して間もない二十代前半の頃、抗争要員として潜伏する任務から一時解放され、緊張感から解き放たれ事に魔がさしたのか、致死量に到るほどの覚醒剤を注射し、生死の境をさまよった時があります。
いずれこの時の体験は詳しくブログに書こうと思っていますが、気を失い、電気がまるでショートする様な「ジ、ジ、ジジジジ…」と言う意識の混濁音と共に幽体離脱し、ホテルの天井から自分の身体を眺めている自分がいたものです。

天井から自分の肉体を見ている時にはそれを受け入れている自分をはっきり認知しており、身体から離れている事から、浮遊するそのままに天井を突き抜け、どこかへ飛んで行こうと意識を向けると、身体に戻される事を何回も繰返したものでしたが、身体にエーテル体(霊体)が戻される度に、「ズンッ!」と言う衝撃もあったものです。

私はこの時、よく言われる様な綺麗な花が咲き乱れる花畑やこの世からあの世への境界とも言われる三途の川の岸にたどり着く事もありませんでしたが、でも、幽体離脱し、浮遊する自分には時間の感覚がまったく消えている事にも気づいたもので、それはまるで宇宙船に乗った飛行士が、大気圏の外の宇宙から、地球を眺めた時の時間が喪失したかの様なトリップ感に似たものがあるのかも知れません。

その後、待ち合わせ時間になっても現れない、私に異変を感じた人が、ホテルのマスターキーを使って身体の冷えきった心停止寸前の私を助けてくれ、病院に運ばれた私はICUで一命をとりとめたのでした…この時も私は幽体離脱以外にも神秘体験をしたものでしたが、当時は見栄と虚勢に生きる極道の世界にいた身でもあり、そうした霊的な体験を自分の中で認める事は、弱きに過ぎる様で抵抗があり、その後も封印するかの様な思いでいたものです。

でも、この時、あの世と呼ばれる様な世界を見てくる事はありませんでしたが、幽体離脱し、時間の概念が消えていた事などを思い出すにつけ、本当は肉体を持つこの世がすへてなどではなく、人間と言うのは、この世に何度となくしがみつく様にプログラムされ、儚い夢を追い、無常を繰り返す哀れな生き物ではないのかと言う様な漠然とした想いが湧き起こる瞬間があったものです。

私達はこの世を、鏡の法則の様に自分が作り出した幻想や夢と、スピリチュアルな本などでその様な概念に触れた時は理屈の上では理解しても、他ならぬ自分自身が、その『夢』であるとは到底認める事ができなかったりするもので、アイディンティーを喪失する恐怖がそこに拍車をかけ、それは死への恐怖や愛する人を失う事への恐れ、戦争の狂気にさえ直結しているものなのかも知れません。

でも、それさえも究極を言えば、この世に生まれてくる時に誰しにも無意識下に組み込まれている「神から分離し、切り離された(宗教上の神ではなく)」と言う恐怖が変形し、枝分かれしたものであると言える様で、私達人間が訂正すべきものは、この「神から分離した幻想」の一点に尽きるのかも知れません。

これから引用する文章は、ヘレン・ジャックマンと言う方がイエス・キリストの言葉を口述筆記した霊性の書として名高い「奇跡のコース」からの引用ですが、この私達の生きる現世をあますところなく辛辣にさえ語っている言葉でもある様に思え、釈迦の語る言葉に置き換えて聞く事も出来る内容です。

******************************

世界の夢のなかで、身体は中心的な存在である。身体なしではどんな夢もなく、また身体は夢のなかで人間であるように見られ信じられ行動する。

夢なしでは身体も存在しない。身体はどの夢のなかでも中心的な場所を占め、その夢は身体がどのように他の身体によって作られ、身体の外の世界へと生まれ出て、しばらくのあいだ生きて死に、それ自身と同じように死につつある他の身体とともにチリと一つになるかを語る。
身体は生きるべく割り当てられた短い時間に友人及び敵として他の身体を求める。

自らの安全が最大の関心事である。自らの快適さが指針となるルールである。身体は快楽を探そうとし、傷つけられることを避けようとする。何よりも身体は苦痛と喜びは別ものであって、完全に分けられると自らに教えようとする。

世界の夢はいろいろなかたちをとる。なぜなら身体はそれが自立していて実体(リアル)であることを証明するいろいろな方法を求めるからである。身体は世界が貴重であり実体(リアル)であると主張する小さな金属板や紙片によって購入したものを身につける。

身体はそれを得るために働き、無意味なことを行い、必要もなく欲してもいない無意味なものと交換にそれらを放り捨てる。身体は身を守り、私有物だと称することができる無意味なものをさらに収集しようとして、他の身体を雇う。身体は夢を分かち合うことができる特別な身体を探す。ときには自らよりも弱い身体の征服者であろうと夢見る。

だが夢のどこかの段階で、身体は身体を傷つけ痛めつける身体の奴隷である。生まれたときから死ぬときまでの身体の連続冒険劇は世界にこれまで存在したすべての夢のテーマである。この夢の「英雄」は決して変わらず、その目的
も変わらない。夢を通じて身体はさまざまなかたちをとり、非常に多様な場所と出来事を現し、そこに「英雄」は自らを見出だすように見えるが、夢には一つの目的しかなく、それがさまざまな方法で教えられている。

そのたった一つのレッスンを繰返し繰返し、さらに繰返して教えようと試みる。それは結果ではなく原因である。ということだ。そしてあなたがたはその結果であり、原因ではあり得ない、と。

このようにあなたがたは夢見るものではなく、夢である。だからあなたがたは、それが考察する場所や出来事を出たり入ったりしていたずらにさまよう。身体が行うのはこれがすべてである、というのは真実である。それは夢のなかの存在だから。しかし、それが実体(リアル)であるかのように見る者以外に、誰が夢のなかの存在に反応するだろうか?

ありのままを見抜いた瞬間に、夢のなかの存在に影響されることはなくなる。それらを生起させ、実体(リアル)であるかのように見せたことによって、自分がそれらに影響力を与えていたことを理解するからである。

世界にかつてあったすべての夢の影響から逃れる意志を、あなたがたはもつであろうか?

******************************

合掌

読者登録してね

☆ヒーリング吉祥の営業日時

☆ヒーリング吉祥のセッションメニュー

ベル残席わずか!大阪出張セッション!講話会&ヒーリングセッション!特別ゲストありビックリマーク

ベル正仙イン広島!ヒーリングセッション満員御礼!ワークショップ&グラウンディングセミナー残席ありビックリマーク

ベルグラウンディング&ヒーリングマスタリーズ開講!…帰る時にはあなたもヒーラーですビックリマーク

ベル地に足を着けブレない自分を生きる!グラウンディングセミナー!!

ベル確信の持てるヒーリングへ!大元ヒーリング(DAIGEN)セミナー!!

タイトルとURLをコピーしました