おはようございます。
私は一昨日、広島から東京に帰ってきました。
広島市内某所にて、庭木を伐採する事による工場円満成就の加持祈祷や、池の埋め立てにおける同様のご祈祷をさせて頂いたものでしたが、願主の方はいずれも甚大な被害の出た広島北部に近い地区にお住まいの方達でもありました。
広島を発ち東京に向かったのは午後8時近くでしたが、その時は雷がゴロゴロと鳴り始め、強く雨も降り始めてはいたものの、その後、数十名にも及ぶ犠牲を出す大災害にまで発展し様とは夢にも思わなかったものです。
東京へ帰り着いてより、鎮宅の為に訪れた方のご自宅は後5センチで床下浸水と言うところで難を逃れ、「これもご祈祷して頂いたお陰」と書かれたメールに、安否もわかりホッとはしたものの、刻々と報じられる惨憺たる被害の状況に、素直に喜べるものではありませんでした。
広島である方とお話しした際に、広島がこれまで天災に強い事なども話題として出たものでしたが、大自然の猛威を前にしては強いものなど何もない無力な私達人間に違いないのです。
加持祈祷などと言うと、呪術のイメージを持っている人も多く、パワーを感じる人も多いのかも知れませんが、
私が今回広島で行った庭木の伐採に関する祈祷一つとって見ても、願主の方がお住まいの地区の氏神を祀る神社に出向き、簡単に言うと「○○宅に於いて庭木を伐採する工事を行いますが、お住まいの方に障礙なく(しょうげなく、災いなくの意) 円満に終える事が出来ます様によろしくお願いいたします」 とご挨拶した後は現地に行き、真言僧として読経し、真言(しんごん、仏の功徳を讃える言葉)を唱え、修法を進めていきますが、そのかたわら、地の神、水の神、木々の精霊に観想の中で「私達人間の都合で樹木を切り倒す事をお許し頂きたい」と合掌し詫びている自分がいるものです。
その敷地内に願主の方の意向で伐る木、残す木と分けられているものがあっても、僧である私からすれば、地面の下では根が繋がる一つのものとして見てとるものがあり、密教僧としての修法もすれば、ヒーラーとして木々に対してヒーリングもする事に於いて、密教の修法もスピリチュアルなヒーリングも私にとっては、共に分け隔てなく身体の一部と言うのが本当のところかも知れません。
今回の広島の土砂災害を人災と見る声もある様です。
甚大な被害の出た広島北部の土石流や地滑りなどの危険性は以前より言及されてきた事であっても、行政側の予算の関係などから、豪雨からの地滑りなどに対しても、安普請な対策しか取られてこなかった現状と言うものを業者として関わった経験から指摘している方もいます。
いたずらに責任論を煽り立てるつもりは毛頭ありませんが…
先程の木の根の話しではありませんが、すべては一つとするスピリチュアルな物の見方で言うならば、一見人知の及ばぬ天災の様な出来事の中にも、人間の飽食の構造や怠惰や虚偽が噴き出し、白日の元にさらされる時を待っていたかの様に思える時があるものです。
深夜1時から2時の豪雨がもたらした地滑りや土石流…
いざと言う時の準備が大切な事は言うまでもありませんが、深夜の事でもあり、真っ暗闇で対応など取り様もないと言うのが本当のところ…
いつにない激しい雨や雷に不安を感じながらも、夜が明ければいつもの様に元気な子供や家族の笑顔に出会えると信じるのも人情…
布団をかぶりそのまま濁流に飲み込まれ亡くなった方を災害に対する準備不足や認識不足だったなどと言う事は到底出来るものではありません。
不意打ちの好きなエゴは、天変地異や天災の背景にさえ潜み、この二元性の星、私達人間の生きる地球に張り巡らされている力学である事、時に情け容赦ないその非情な素顔をまざまざと現す時があるものです。
この度の広島の土砂災害で亡くなられた方のご冥福を小さな自坊よりお祈り申し上げます。
合掌