★人間関係に見るハイアーセルフの介在とは?

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執着とはそこにどんな理屈が付こうとも、自分の都合が顔を覗かせているものです。

誰だって突如の愛する人や親しい人の心変わりや離反や別れを受け入れられなくて、本当はその関係を修復したいのに、相手をなじる様に釈明を求めたりで、益々事態を難しくしてしまう時が人生に一度や二度はあるのではないでしょうか?

こんな時は相手の落ち度や自分に対する仕打ちと思える事ばかりに目が行ってしまい、自分が相手の気持ちを疲弊させ、自分から離れて行く決断をさせる原因となった自分のエゴにはなかなか気付かないものです。

でも、本当はわかっていても気付きたくないのも人間なのかも知れません。

何故なら…それを認めてしまえば、今まで破局や破綻を描いた自分の人間関係にも、同様の自分のエゴが介在していた事を、他の誰でもない自分に対して認めなければならないからであり、一敗地に塗れる様な思いにとらわれるのが惨めで怖いばかりに、その恐れを相手に投影しひっかぶせてしまう事で常に自分の正当性にしがみつくのも人間だからです。

ハイアーセルフとは実にここを見据えている存在で、こうした人の関係において荒涼たる風が吹いた時、相手との関係に聖なるものを見出だし、自分と相手を許し解き放つ事が出来る様になるまで、出会う人間の姿や形やシチュエーションを変えてでも、何度もあえて難しい人間関係へと背中を押し、レッスンを経験させる働きがある様です。

以前、極道の世界に生きた私は、瞬間湯沸かし器の如く『コラッ!なめとったら承知せんぞおどれ!二度とそのツラ俺の前に見せるな!』とばかりに、ブッツリとその場の感情のままに人の縁を切る場面も度々あったものです。

『縁が無くなりゃ昨日の味方も今日の敵』とは、人、金、命を縁や因果で形容したり揶揄する習慣のあった極道の世界において、当時の刹那的な己の生き方をどこかしら嘲笑する様に口に出していた言葉でもありましたが…
自分の非など認めず揚げ足の取り合いが日常のアウトレイジな世界に生きていた頃と言うのは、自分が盃を貰った親分や兄貴分に忠誠さえ誓っていれば、とどのつまりは他の人間との間に何が起きたところで、居直ってでも、開き直ってでも相手をやり込めてしまえばそれで良いと言う、『結果よければすべて良し!』と二重規範の様な信念にドップリ浸かっていた時期でもありました。

こうした時期と言うのは、何もそれは敵対する極道同士はがりでなく、極道である自分を応援してくれた堅気の人達に対してもそれは及び、仕事や資金の援助をして貰っている内は『社長、何かの時はいつでも連絡下さい。』と親密さを装うものの…
そうした方から、借金を建前に引き出した金の返済を求められた時など、ここが縁の切れ目とばかりに『社長さんよ、笑わしたらいかんぞ、こっちのおかげであんた今まで仕事も出来たんだろう?寝言は言うなや!』と二の句が継げぬ様、極道の看板でその口を封じてしまう事もあったものです。こうした事を当時は『食い潰す』とそのままの形容で言ったものでしたが…

こうした事が当時は万事だった私に、どれだけのエゴや恐れのパターンが隠されていたのか?それを知ったのはスピリチュアルな世界へ足を踏み入れてからでした。

初めはスピの世界に生きる人など、全く接点のない異界の人々の様に思えたものです(笑)
(;´Д`)

アウトレイジな世界から現在の仕事、一人のヒーラーとして歩き初めた時、嫌が上でも自分の恐れやエゴと向きあわなければなりませんでした。
都合が悪ければ開き直り、逆ギレする事も自分の恐れの具現化の何物でもない事、どこかしら『許されていると言う傲慢さ』の上にあぐらをかく甘えである事なども、まるで鼻につくかの様に、時に突き付けられるかの様に、自分自身がそれを上っ面ではなく、奥深いところで認めるまで、人との関わりの中にも、自分の葛藤の中にもそれを繰り返し見せられた様な気がします。

そんな時期と言うのは、感情の波に呑まれやすいものですが、そんな時、自分をしっかりブレぬ様繋ぎ留め、浄化を可能にしてくれたのが私の場合はグラウンディングだったのです。
感情の変転人一倍激しい極道あがりのヒーラーを支えたものであるからこそ、私は人にグラウンディングをすすめるのです。
ここが他のヒーラーさんと私の違うところかも知れません。

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人間関係にさざ波が立ち、心が乱れ相手や関係を自分に取り戻したい執着にかられそうな時、たとえ今はその相手が憎しみに彩られたものに見えても、目を閉じ、相手の姿を思い浮かべ、大きな気持ちの良い深呼吸の後で、合掌する、もしくは自分の両肩を抱きかかえる、もしくはハートチャクラに手を充てるなど、自分が好ましいと思う姿勢で、今までだったら『私の…』からで始まっていた恋人や友達を『神の恋人の〇〇さん』『神の友人の〇〇さん』もしくは『神の子供の〇〇さん』と声に出し、その後に『出会ってくれてありがとう。』と、何回でも何十回でも、涙が溢れて来ようとも日々繰り返す時、意中の相手との間にエネルギーの上でも浄化がもたらされるものです。

『私の…』から始まる言葉を『神の…』から始まるそれに置き換えるのはただの言葉のあやで、意味などないのではないか?と思われる方もいるかも知れませんが、これは意識をハイアーセルフの視点にシフトさせる働きがあり、そうした時期、スッキリとは行かない感情の中にも、中立な視点が用意され、今の相手の自分に対する感情や状態、今まで相手にとらわれていた自分の姿にも気付かせてくれたりするもので…
例え別れや破局が訪れ様とも、相手を赦す事や祝福すべき事が今大切な事、または今までの相手に対する自分の態度や行いを謝る素直な心に向けられる不思議な働きがあったりもします。

人の出会いの深遠さと言うもの…
時には抗い葛藤する、どうにも手強い相手と言うものにも、魂を研ぎ磨く砥石の役目さえ持っている事、嵐の過ぎ去った後で、しみじみ感じるのも私達人間の生涯なのかも知れません。

こうした人生上に現れるキャスティングも、ハイアーセルフが完璧なタイミンクで人生に登場させる様に思え
てなりません。

私がスピリチュアルな道に進み浄化の波を経験した頃と言うのは、まるでそれは三歩進んでは二歩さがる様な、ちょっとばかり自らのエネルギーがクリアになったつもりでいると、怒りや葛藤を感じる出来事を経験するなど、悟りなどと言う言葉はどこへやら(笑)またスタートラインに引き戻された様な気が何度となくしたものでした。

でも、人が何を気付いてるのか?それが上っ面なものなのか?または特定の関係性においては適用されないエゴを自らに許していないのか?など、ハイアーセルフは実に陰日なたなく見抜いている存在の様で、私なども今の道を歩み始めた時なども、先の見えない毎日に苛立ちを感じ、瞑想の時にそれこそ極道調に(笑)ハイアーセルフに毒づき、呪う様な言葉を吐いたものです。
((o(*≧д≦)o))

でも、そんな冒涜とも思える私の問いにも日を置いて優しく答えを返してくれたハイアーセルフだったのです。

内なる神、神と共にある次元における自分の良心、高次の自己、解釈はいか様にもありますが、ハイアーセルフが自らの聖霊である事は疑い様のない事でもあります。

どんな人にも必ずサボートするかの様についているハイアーセルフは、あなたが気付き呼びかけてくれるのを待っているのではないでしょうか?

あなたはどんな時も一人ぼっちなんかじゃありません。

合掌

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