※このストーリーは写真の実在の僧侶とは関係ありません。
ああ…私はどうしたらいい…
仲間の僧侶達の読経の中、一人の若き僧に訪れた迷い…
私はある日、まだ少年の様なあどけない表情をした托鉢僧を街中で見かける事があった…
私はその少年に『あなたの師はどなた様ですか?』と聞いてみた…
するとその紅顔の托鉢僧は、返事もせずにニコリと笑い自分の胸に手をあててみせたものだ…
その瞬間、何かが私の中から崩れて行くものを感じた…
今日まで私は師の一挙手一投足までを自分の物とし、呼吸までも師と同化させるそれが修行だと思っていた。
それは大きく自分を成長させた事に違いあるまい…またそれを疑う仲間の僧侶は誰もいない。
でも、お年寄りや身体の不自由な方の身体をさすったり、手の平をかざし癒しを与えているあの日の少年の姿は、私には輝くばかりに見え、そして衝撃でもあったのだ…
聖なる寺院とは自分の胸の中にある事…そして人が行き交う全ての空間に遍満している事を、教義のそれではなく、あの少年がその姿を持って教えてくれた様な気さえするではないか…?
その日から沸々と私の中で迷いや葛藤が生まれている。
子供の頃から預けられ親しんできた寺院を離れる事は私にとって身体を切り取られるに等しいくらいに辛い…
朝夕に嗅いできた白檀の香り…その全てが私の身体の一部だから…
でも、『自分にとっての真実』が見えてきた私にとって、ここはもはや居るべき場所ではないのだろう…
歩いて行けるだろうか…
歩いて行けるだろうか…
私の中にある仏や菩薩の声が指し示すままに…
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人間には何かに帰属している事で得られる安心感や安堵と言うものがあります。
でも、時にその人に応じて現れる気付きと言うものが、そこに留まろうとする自分との間に大きな葛藤を生じさせたりする時があるものです。
今まで自分が柱と据えていた信念や考え方にも疑念や曇りが生まれたりで、出口の無い際限の無い迷路に立たされた様な気持ちになってみたり、自分本来のパワーが無くなったかの様な錯覚にさえ囚われるのも私達人間でもあります。
でも本当は、こんな時こそ神が介在している瞬間なのかも知れません。
自分では怒涛の如く、時には究極の選択を迫られるかの様な人生の変化変容と言うもの…過ぎ去ってみれば見事に予定調和されたものがあった事を知る事の多い私達でもあります。
例えば、財産を失った様に見える人なども、周りが『またやり直せばいいじゃないか!』と励ましたところで、そんな言葉は馬耳東風、他人事だから言える事とばかりに、心を閉ざし暗澹とした時間を過ごしたりで、益々事態を難しいものにしてしまう時もあるのかも知れません。
でも、そんな時と言うのは、周囲を恨んだりする一方で、自分にも目が向くのも人間の素晴らしいところでもあります。
拝金主義だった自分や経済的な繁栄だけに重きを置いていた自分にも気付かされたり…内面の優しさや安心を取り戻し、家族や周囲との関係を見直したり、自分の内面の在り方をとても大切にする人生へその生き方をシフトさせたりする方もいたりするものです。
スピリチュアルな世界では『超えられぬ課題は神は人間に与えない』と言う言葉があったりもしますが…
今までだって、どんな困難をも乗り越えてきたあなたでもあります。
合掌