今日は知人のご依頼でお仏壇の精抜きのお仕事に行ってきました。
私の住む東京下町は、昭和30年代~40年代に建築された家屋に住む方も都心に比べて多い場所でもあります。
ただでさえ老朽化している建物に、さきの大震災によって表には見えない形での損傷が出ている場合も多い様で…
家が微妙に歪んでしまい窓や扉が開かなくなってしまったり、屋根や壁に亀裂が生じ…
雨水が家に染み渡り天井に水が回りはじめたりと…
まるでボディブローが効きはじめる様に、間もなく震災より二ヶ月が経とうとする今この時期に来てその爪痕を露わにする事もある様です。
今日の願主さんもそうした事から日々の生活にも障害が出始め、思い出深い家から引っ越し、家も解体されるそうで…
そうした時に困ったのが仏壇の処分…
現代の住宅事情では、大きな仏壇を置く許容スペースをなかなか設けづらい現実があります。
お位牌は新しいご自宅に引き取り御供養したいとの事でしたが…
祖父の代より拝み込んできた仏壇はこれを機に処分したいとの事、しかしながら、今まで朝に晩に先祖に手を合わせ感謝を捧げてきた仏壇を無造作に処分する事は忍びないと…
解体業者に引き渡す前に、両親や祖父や祖母の大きな御身影(写真)と共に供養をお願いしたいとの申し出だったのです。
現代では家の引っ越しなどに伴い、これ幸いとばかりに仏壇の処分も業者に任せっきりの方も多い中で、殊勝な優しい心根を感じさせる方でもありました。
宅の玄関をくぐり、仏壇の前に行くと長年拝み込んできた仏壇である事がわかります。
定に入り、自身や家自体を結界加持して行きます。
家の中には喜びも悲しみも家族の歴史とも言うべきエネルギーが踊っている様な感覚さえありました。
仏壇や御身影に香水加持を済ませた後で、発遣(ホッケン)と呼ぶ行法に入って行きます。
簡単に言うと仏壇より魂を解き放ち、法性(ほっしょう)の本土に還って頂く事でもあります。(光りの世界に還って頂く事…)
仏壇に故人の魂が常時いる訳ではありませんが、仏壇に手を合わせる時、瞬時にそこに故人の霊的エッセンスが訪れる、向こうとこちらを繋ぐ鏡の役割を果たしている聖なる場所でもあります。
そうした仏壇、長年拝み込んできたものとなると悲喜こもごも拝む方のエネルギーがそこに強く残存している場合が多いものです。
その昔、私がまだ極道の世界にいた頃…債権取り立てなどで訪れた家で大きな仏壇のある仏間に通されて話しに及ぶ時がありました。
そんな時、その大きな仏壇の位牌や親や先祖の方と思われる大きな御身影に「この家に何しに来たこの極道者め」と睨めつけられている様な気がしたものです。
そこには私自身の負い目もあったのかも知れませんが…笑
そんな時私は、その家の仏壇や御両親や先祖の方と思われる御身影にチラリと目をやり、手こそ合わせませんでしたが…
「この家の先祖の方達よ…私は極道渡世に生きてる者です。なんの因果が巡っての事かは知りませんが、借金取りとしてお宅にお邪魔しております。御子息が借りたお金は返してもらわなければなりません…大きい声など出さずに円満に済ませたいと思っていますが、場合によってはお耳障りな話しになるやも知れません。どうかご容赦頂きたいと思います。」と心の中で理(ことわり)を入れたものでした。
そうすると不思議なもので、債務者ではあるものの、向こうにも言い分のありそうな話しで、難航しそうなものを予想した上て話しに臨んだものの、アッサリとお互いに妥協点を見つける事が出来たりして、円満な解決を見る事が出来た事もあったものです。
話しが逸れましたが…笑
理趣経から般若心経、阿弥陀如来から観音、不動明王の諸真言を唱え、全ての仏の総呪とも言える光明真言を五色の印と共に唱えて行きます。
おん あぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まに はんどま
じんばら はらばりたや うん
観想の中で、光の輪を作り、仏壇も御身影も包み込んで行きます。
唱える真言の功徳は、意図する行者の意念が何よりも大切な事は常日頃痛感している事でもあります。
読経を終えて合掌していると、女性の声で「この子にとっても、この家は思い出深い家だったんですよ。」と穏やかな声が私の内側に響いてきました。
それは、私の後ろで合掌している女性の母親の声に私には感じたものです。
そこに頑固に居座る霊の存在を感じる事もなく、今、思い出深い家を離れ、残された娘さんを暖かく見守る愛の波動を感じるばかり…
魂を光りの世界に還す密教僧としての行法を全て終えた後で、仏壇や写真に滞留しているエネルギーを全て落とし、あるべき場所に還すヒーリングワークをして終了したのでした。
自坊に帰る早々、頂いた大福にパクついた愚僧であります…笑
合掌