この数年、テーラワーダ(スリランカ・上座部仏教)の長老などがYouTubeで大乗仏教の批判などを展開している為か、論争なども生まれている様で、今は動画やネットでも上座部の経典をいいとこどりしてチョイス出来るので、我が意を得たりとばかりに高慢なにわか覚者の多い時代の様です。
仏教の開祖お釈迦様は偉大な覚者に違いありませんが、経典は釈迦の没後弟子の比丘達が編纂し後世の現在に至るまで伝えられてきているものであり、上座部の僧侶が釈迦の教えに純粋で正しいと力説したところで、私などは完璧なものとして響かないものです。また解脱の最上位と言われる釈迦の錚々たる高弟達が名を連ねる阿羅漢なども、涅槃まで行って間違い無く阿羅漢でした。解脱の極みにございますとこちらへお墨付きを示した人間がいようはずもなく、仏教悟りの賢者の歴史とは別のところで再び輪廻に引っ張られ、仏教とは関係の無い別の生涯にてそれを成し遂げた釈迦の直系の仏弟子がいてもおかしくないと私などは考えるものであり、他者がそれを知る事など出来様はずも無いのです。
こちらが正しい、正統だなどと口角泡を飛ばしお互い指を差し合う様仕向けるのもエゴの計略というもので、真の悟りなどというものはそんな事を脇目にスルリと逃げて行ってしまうものではないのでしょうか?
日本は大別で言えば北伝仏教ではあるけども、神道は勿論の事、古神道(山岳信仰なども)修験、儒教、在家に至っては武士道の影響さえ長い歴史の中で培われたものが垣間見えるもので、そこに四季がもたらす(年々、亜熱帯化の一途ではあるけども)日本独特の侘び寂び、情緒を培ってきた精神世界があり、これはかつて極道の世界に生きた私にとって、時にのっぴきならぬ綺麗ごと抜きの修羅道の世界ではありながら、そんな世界にも礼節など儒教的な要素や潔さを好む武士道が横たわっていたと思うものであり、半グレや闇バイトが横行する不良と堅気の境界もあいまいな今の時代と違い、そうした信念体系というものも時に暴走を食い止める安全弁として働いたり、矛盾している様ではあるけども、地獄の沙汰の中にも情が入り込む余地を作っていた様にさえ思うものです。
人間、平面図にあらずとはよく言わせて頂くものですが、箸と茶碗と言えばメシを食べる事(生活を立てる事)ですが、僧侶と言えど霞を食べて生きて行く事は出来ず、それぞれの宗派に従った生活の在り方、ハイライトは人を侵害、自由意志を侵奪するもので無ければあって良いと思うものであり、この娑婆(世界)を指して『幻想道場』とはよく言わせて頂くものですが(笑)幻想は幻想として知り楽しむ、されど真理を学ぶ事に於いては誰に遠慮する事無く(たとえ師であろうとも)真摯に探求する。それさえ忘れなければ、宗教、スピリチュアル問わず、自分の好きな様に学び、その人なりの悟りの形があって良いと思う愚僧であります。
以下上記フェイスブックでの投稿に対して頂いたコメントを掲載いたします。
現在の上座部大寺派の流れはブッダゴーサ以降のパーリ語仏典群からのもので、上座部は、人間は縁起により生起した五蘊仮和合の存在で無常であるから実体はなく、また業により受生(輪廻)するという釈迦牟尼一本槍で、その縁起と業を生起せしめる源までは説き切れません。何か反論すれば、釈迦牟尼はそんな事は言っていないから仏説ではないと逃げますから、話になりません。またスリランカにおける上座部、特に大寺派(シャム派)には農耕カーストが存在し、耕作主のゴイガマが最上位カーストであり、そのゴイガマしか僧侶になれません。ですからカーストなどの身分差などなく別け隔てなく人間は平等と言った釈迦牟尼の言葉に逆らい体現している時点でパラドックスが生じているにもかからわず原理主義たらんとする姿勢が頂けません。また大衆部から生まれた大乗仏教の空観、唯識に関しても、上座部いわく仏説でなく創作だとしても、修行者であり、それなりの三摩地に住す事が出来る者ならば理解が及ぶはずですから、その域ではないと言えます。ましてや、日本の真言密教では、お大師様がそれまで地水火風空の五大でしかなかったものに識大を加え、六大としたところに、最先端量子物理学でも未だ説き切れない、量子場の海、意識の大海たる阿字本不生の全ての存在、現象の源を、原理主義の上座部では残念ながら理解する術はありません。
合掌
如来や菩薩、聖人でなくても、学問上の理解が正しく出来ている人、という場合もありますが、この様な人は、恐らく如来を名乗ったりしません。
仏教が伝播する時に、勿論経典も伴っていたはずですので、どちらが本物と問われても、困るのではないでしょうか。
ただ、経典の解釈において、誤解・曲解がありますと、釈尊の教えとは似ても似つかない邪教になってしまう事もあります。
大乗経典に対する批判は種々あろうかと思われますが、諸法無我の振るいにかけられた時、重要な批判がどれだけ残るのか、それこそが過去世、現在世、未来世に共通し、また全ての衆生に共通した内容となりますので。
新々宗教は、救いよりも会員を拡大して会費を徴収するキリスト教の信託を真似しちゃってる感がありますね。経典や仏をおかすべからざる神々に仕上げてしまった。神託見たいに感じますが、人びとを導き入れる研究がしっかり出来ている。
私は、釈尊の救いの、実践を大切にしたいですね。