中学の頃からJAZZが好きだった私は、ビックバンドの演奏を入門編にこのビリー・ホリデイのアルバムなども聞いていたものです。
※奇妙な果実(日本語訳)
英語など皆目分からぬ私でしたが(今も、笑)その歌声、哀感の伴う独特の抑揚に惹かれて聞いていたのでした。
中学を卒業し、生バンドの演奏や歌手の興行なども行う深夜営業のナイトレストランの様な店で少しの間働いていたもので、白のワイシャツに蝶ネクタイを締め、シェーカーを8の字に振ってカクテルを作ったり、コーヒーを焚いたり、ペティナイフでリンゴの笹作りを作ったりと、今思うと結構器用にやっていたなと思えるものです(笑)
当時は昭和50年代も半ばから後半にさしかかろうと云う頃でしたが、その頃は客席の多いグランドキャバレーなども盛んな頃で、実力のある演歌歌手(藤圭子、宇多田ヒカルの母親なども)から二流のそれまで、ドサ回りと言われた地方のキャバレーなどを巡業する様に回って歌謡ショーやリサイタルを行って生計を立てている時代でした。
それに付帯するかの様に生バンド演奏家の一行もついてきたもので、私が働いていた店にも様々な演奏家、ジャズメンが来たものです。見ていると個性豊かと言うべきか、なかなか変わり者も多く、バンドメンバーに対する歌手の態度が少しばかり生意気で横柄だったりすると、素人が聞いていても分からぬ程度に微妙にベースやエレキ、ドラムの音を外すなどして意地悪をするもので、演奏終了後、その仕打ちに耐えられず、バックステージで悔し泣きしている歌手などもいたものです。
私なども中卒の十代で生意気の盛り、この店で働いていた頃は各地の板場を渡り歩いてきたひと癖ある調理人などから「このガキ、生意気だなこの野郎、大人への口の聞き方教えてやる💢」などと出刃をつきつけられ、冬空の下に引きずり出された事などもありましたが、逆に刃物を取り上げ、ホールドアップして頂いた事もあれば(笑)
その他にも生バンド、演奏家の面々にもナメられてたまるかとよく喧嘩したもので、それでも「生意気だけど根性あるね」などと認められ、意気投合する人間などもいました。
当時は店の寮に住んでいた私でしたが、ある時、ビリー・ホリデイのアルバム(カセットテープ笑)を聞いていると、やはり演奏の期間中だけ、その寮を宿所としていたジャズメンが『おーっ、ビリーホリデイとは若いのにシブいの聞くんだね。でも、今かけている曲は知っていたかい?黒人が白人に吊るされる差別を歌ったジャズの名盤だよ』と声をかけてきたもので、その時にかけていた曲が冒頭の『奇妙な果実』だったのです。
この曲を歌ったビリー・ホリデイは『レディ』の称号で讃えられ一世を風靡したジャズボーカルの女王ですが(1919年〜1959年、享年44才)ジャンキーに等しい薬物中毒、バイセクシャルで奔放な愛憎遍歴、様々な事が影響して栄光から破滅までを描いた人生だった様ですが、子供の時にレイブされた経験などもあり、極貧の家庭を支える為に母親からは売春を強いられ、アメリカ南部などにおいて、木に吊るされ、家を焼き払われるアフリカ系アメリカ人への白人社会の暴挙、差別、地獄の沙汰を目の当たりに見てきたこの人なればこその歌に違いありません。
でも今だって、人種差別は当たり前に姿や形を変え、なお一層に世界に実りを見せる『奇妙な果実』ではなかろうかと思ってしまう愚僧であります。
合掌
密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰
かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。
あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に
愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。