浮気や不倫にも真実な愛があるとする声は多いもので、過去世のカルマからツインソウルまで登場し、様々にも火宅の現場を解説するスピな世界の住人は多い様です。
されど、その当初というのは背徳感やスリル、性的なボルテージに引き込まれるばかりで、配偶者やストレスのかかる家庭や現状から逃避するなと個々の事情や意識があるにせよ、影を伴う恋愛をそれほど深掘りして考える人はそう多くはいないに違いありません。
月日が経つにつれ、それが浮気であろうと本気であろうと、不倫であろうと、実は付き合うというのは相手の人生のある面を(負の側面も)引き受け背負い込む事だと物心両面にて気付かされたり、人の持ち物を奪っている様な刺激的な背徳感や快楽もやがて色褪せマンネリ化し、そこに罪悪感が追い付いてきて薄ぼんやりとしたフィルターを脳内に埋め込まれた様に元気を失うのも人間と言うものかも知れません。
『見つかって良かった💦いつか来ると思っていました。これでホッとしました』とは覚醒剤や大麻などで捕まる芸能人の逮捕時に多く見られるコメントだったりしますが、浮気や不倫も末期の状態にさしかかると、事が発覚し、破綻を怖れる一方、相手には言えぬものの、出口の見えぬ状況から脱したい、別れる事を含めソフトランディング出来ぬものかと意識が芽生えるのも人間で、依存症で苦しむ人間の心理過程に同様のものがあったりします。
安易に脱線する方が楽であり、結果、より大きな苦しみに倍加されると仏教では教えるものですが、肉体を執着の種、不浄とみなしたお釈迦様からすれば『どんな高尚な理屈をとってつけたところで、そもそも、相手のイメージ(肉体、容姿)が無ければそんな気にもならなかったのでは?』と、そのお声が聞こえてきそうでもあります。
冒頭にある愛や真理への関連付けも、むしろ浮気や不倫が露見してしまい、泡沫の夢から覚める様に全てを失うが如き窮地(家庭や信用)に立たされて初めて人は愛とか真実に目を向けられるのではないかとさえ思うものです。
それでも、不思議と浮気や不倫をする人間の中には繰り返しそれを行う様にプログラミングされているとしか思えない様な人間もいるもので(笑)
やはり今世で必要必然に体験させられる業(カルマ)として厳然とセットアップされたものがある様に思えるケースなどもあります。
でも、そんな御仁もいつの間にやら頭もハゲ(男女共に)歯茎は下がり、目も見えなくなり、下膨れの様な腹になり、あちこちに慢性の痛みを抱え、お道具も不全と化していても、今度こそは今度こそはと思っている内に身体は悲鳴を上げ、寿命が先に尽きてしまうと言うものかも知れません。
それが人でも物でも外部から充足や心の安心を得ようとする試みは、常に飢餓感や不安の種を表に投影し続けると言うのがこの娑婆に於ける自我が仕掛けるトリックと言うもので、現代でよく言われるクオリティ・オブ・ライフも若さや生き甲斐、情熱や輝き、人との出会いの大切さと言うものが、安易に恋愛から不倫へと捏造、拡大解釈される傾向さえある様で、瞑想他、日々膨大に押し寄せ幻惑する脳内のノイズを断つべく、一日の内に思考を隔絶する時間を設けるなど、自らの思考を見張る習慣を身に付ける事が大切である事は言うまでもありません。
合掌