著名人の事故で亡くなる方のケースなどを見ると、それ以前に一度、二度とサインの様に現れる違反の後で、大事故を起こし命を落としている事も。
こんな時、不慮の事故などと人は嘆くものですが、仏教の視点で言えば因果法則の上で生じた必然の事と判じるもので、原因が分からなければ、過去世から持ち越してきた業(カルマ)として顕現したものととらえ、原因なき所にまた結果無しと言うスタンスを崩しません。
これは、他の全ての事にも言える事で、人は成功や喜びにある時は疲れる事を知らず、「努力の結果」「日頃の成果」と酔いやすいもので、心に余裕が生まれる事から取り繕う様に周囲への感謝などもするものですが、転じて災難や事故や病気、人間関係に於けるトラブルなどに見舞われると、
『何で私だけこんな目に遭う?💦』
『俺がいったい何をしたと言うのか?』
『私は悪く無いのに何故こんな理不尽で酷い思いをしなきゃならないんだ💢』
『俺が景気のいいときゃ来た奴も水が引く様に離れていきやがって、散々飲み食いさせてやった金を目の前に来て返しやがれ!💢』
『せっかく好調だったのに病気になったのも、きっとアイツが俺を呪って念を飛ばして来ているに違いない』等々、
自我(エゴ)の攻撃に思考を奪われ、にわか仕込みの人への感謝などは吹っ飛んでしまい、(真に感謝が身についている人はとどまります)現状を打開したいあまり、周囲や他者を攻撃したり自分の快適な様にコントロールし様としたりと、スピリチュアルで言えばエネルギー侵害、依存のパターンを繰り返すあまり、益々、混乱と葛藤を深め、状況を難しいものとしてしまい答えの出ぬままに命を召し上げられしまうかの様な人も。
今思えば、極道当時なども関わる人の顛末に見て来た事でもあり『無明のままに生きる人間は病気である』と諭したお釈迦様の教えが身に沁むばかりです。
ネガティブとかポジティブとか安易な分類ではなく、私が過去の世界で見て来た人も今の僧侶としてヒーラーとして接する方達の誰しもが、それぞれにその人なりの地獄を持っていたり苦しみを抱えていたりと、程度や形態の差はあれど、業の作用を受けている事に於いて五分の兄弟姉妹である事を日々痛感させられるばかりで、日常に於ける対人関係に於ける葛藤やトラブルや事故などに直面しても、
状況や相手を恨んだり呪ったりする事なく、どれたけ自らが正しく思えても(そんな事は生きてる内に山ほどあります笑)鉄槌を振り上げる様に正義のもとに相手を完膚無きまでに打ちのめしたいと思っても、または単にやられたらやり返したい誘惑に駆られても(笑)業が現れていると理解する事、突発的だったり不意打ちの様に原因が分からずとも、目隠しされて分からないだけで、過去世では等同の事を自らもやらかしたのだろうと(笑)深呼吸して思いとどまる習慣、そこに罪悪感も深刻さも必要無く、解消すべき時期に来たからこそ目の前に浮上している『赦しのレッスン』として通り過ぎる事が大切な様です。
(真摯に対話やサポートし合う事も勿論大切です)
今回だけの生涯が人間の生であれば、全くもって適者生存、弱肉強食の論理で生きるべきなのでしょうが、人が不可思議とする輪廻転生をも壮大な心の世界として認識する仏教は、今の自分の心の在り方や押し出すものが来世にも業として影響を及ぼす事を理解し教えとしているもので、この点に於いても成功哲学や自己啓発などとは大きく守備範囲の異なるものと言えるかも知れません。