こんにちは
最近の○○さんの投稿を拝見していると○さんに関する事が多く、葛藤や去来するものがある様にお見受けしておりました。
兄弟、姉妹、同じ親を持つ身でありながら何故こうも違うのかと、また気が合わないのかと悩んでいた事も鬼籍に入ってしまえば懐かしくなったり、もっと暖かく接すれば良かったとか自らを責めるのも人の自然な気持ちと言うものかも知れません。
かと言って、亡くなった当人が目の前にくれば以前を悔いて多少は暖かく接したり言葉をかけたりはするかも知れませんが、やはり本人を目の前にすれば、照れがあったりそう全オープンに素直にはなれない自分がいると言うのも本当のところではないでしょうか?どうかそんな事も思い出されて肩の荷を降ろされてください。供養の為、しっかり生きるとは立派な心がけですか、気負うものがあると疲れてしまいます。また故人に対する生前の思い出や自らの未熟さに浸る時間が長すぎるのも、失礼ながら執着に他ならず心身をドロップさせてしまいます。
たとえば、拝みの世界では自殺だったり事故死だったりと言う事が配偶者や子供に障りをもたらしたり何らかのカルマを生じさせると言う様な事が強調されたりもしますが、本来仏教はいかなる亡くなり方であろうともその人の死に方の形態に過ぎぬものと見てそこに怖れのシナプスを付加する様な事はしません。
私にしても○○さんにしても寿命が尽きれば嫌が上でも身体から抜け出して移動して行きます。私は若い頃に臨死体験などもあるので分かるのですが、人間の意識は死と呼ばれる体験の後も間断無く継続して行くもので、○さんにしても旅立たれた直後はこの現世からのあらゆる束縛や時間、制限制約から解き放たれた開放感に満ちあふれていたはずで、その後に於いてまた自らの業(カルマ)や課題に従って輪廻されるなりステージを歩む事に於いて残されたこちら側の想いや思惑など関係無しにさっさと歩んでいると言うのが本当のところだと思います。
だから、○さんが光の中へ還り自らの進むべき道を歩んでいるのだろうと安心している事が大切です。
お花畑なスピリチュアルではなく(笑)仏教や真のスピリチュアルに照らすと、生きる事にも死ぬ事にも意味はなく壮大な心の中に置かれた自我の投影、光学的幻想から抜け出して輪廻を断つと言うのがその究極ではありますが、俗世を生きる我々生身の人間にとっては何とも味気なく寂しいものに響くものです。
でも、年齢と共に何一つ形をとどめない諸行無常は身をもって自らにも周囲にも認める事が出来る様になるもので、強みに過ぎる若い時とは違い学習出来る下地はあるものです。あらゆる執着を穏やかに手放して行く時(故人への葛藤も)些細な事にも心から大袈裟に笑える、また感謝も出来、安心や安堵も訪れる様になります。
どうぞ過去にとらわれずまた自らを責める事なく、今この瞬間、この時を楽しまれてくださいね。
合掌