大阪の地震…お悔やみの記事にもデリカシーは必要なのか?

昨日発生した大阪の地震、幼い子供や数名の方がお亡くなりになるなどご冥福をお祈りするばかりですが…
とかくこうした時と言うのは自らにある心の闇も投影しやすいもので、
先ほども電話で、インスタグラムに和菓子の写真を載せたところお友達から「大阪の方達が地震で大変な思いをしているのに和菓子の写真上げるなんて少し呑気に過ぎるんじゃないの?」と言われて口ゲンカになってしまいショックで寝込んででしまったと話してくださった方がいました。
でも、お話を聞けば親戚の法事の休憩時に頂いた和菓子をUPしただけで何ら人から咎め立てされる様なものではありません。
(事実を少し変えてあります)
この様な天災の発生時などフェイスブックなどのSNSでは一斉配信とでも言う様にタイムライン上には…
「お悔やみ申し上げます」
「ご冥福をお祈り申し上げます」の文字が並び、
「何か出来る事がありましたら言ってきてくださいね」と書き込む人もいたりで、それはそれで各人の思いの発露で自由な事ではあります。中には真摯な思いの感じられる書き込みなどもあったりするのですが、でも同時に何か人が地震などの天災に於いてお悔やみに言及したから、こちらもタイムラインに上げておかなければと言う様な一律同文的な社交辞令なものさえそこに感じてしまう私でもあるのです。
大きな地震は非常時でもあり、発生当日など被害の状況、亡くなった方なども判明しないのが殆どです。そんな中でのタイムラインを埋め尽くすかの様な地震発生直後などに見られる「お悔やみ申し上げます」の投稿は、言葉は悪い様ですが、地震の現地にある人からすれば自我を満足させるだけのデリカシーに欠ける投稿に映ると言ったなら天の邪鬼に過ぎるでしょうか?
大きな地震は遮断や停止など交通などのライフラインに異常をきたす事でもあり、現地にある人は…
「一刻も早く帰宅したい」
「家族の安否を確かめる為連絡が取りたい」等々、
目をさらにして情報を取りたい時でもあり、お悔やみの文章よりも交通の回復に関する事など有効な情報を求めているもので、お悔やみの文章とか、この地震を実は自分は予知していたとか(笑)そんな事をタイムラインに上げるよりも、提供出来る情報があればタイムラインにUPし、地震発生直後など錯綜しているものが感じられた時など、今回の地震であれば大阪や関西圏の方達のやり取りにスペースを譲って静観する事もとても大切な様な気がします。
冒頭のケースの様に、倫理やその時々のうつろいやすい正義を振りかざし、偽善に酔っている自分に気付かず人を見下すかの様にジャッジし攻撃され精神的侵害を受けたケースと言うものも、東日本大震災の直後なども被災地でのボランティアやNPOに従事された方や、そうした方を友人に持つ方へのセッションなどでお聞きする事も多かったものです。
地震、大阪、関西と区切ってしまえばそこに対比するものが生まれ…
「だからアンタはどうなのさ!」とそこに自分の日頃のやるせなさや不満までを便乗させてジャッジのゲンコツを振り下ろしたくなるのも人間なのです。
どこにあっても、それが地震や事故や病気であっても、人間誰しも生きて行く上でその人なりの不幸や災難は経験して行くものであり、天災で塗炭の苦しみにある人の姿にも、救い救われる立場の逆転などたった今でも起こり得る諸行無常を知り、弱く儚い肉体次元に生きる自分自身の姿を認めて…
そんな同胞(はらから)に優しく寄り添う気持ちこそが大切なのではないでしょうか?そこから何かをすべきと思えばすれば良し、そこに人様は関係の無い事でもあります。
自坊本尊は地震よけの修法で知られる大元帥明王、余震続く大阪での地震鎮まります様、本日も厳修させて頂きたいと思います。
タイトルとURLをコピーしました