☆赦しのレッスン・些細に突如に大胆にそれはやってくる

心はとらえ難く、軽薄で、わがまま放題である。
その心を制御することは善いことだ。
制御された心は、安楽をもたらす。
心は見通すことがとても難しく、極めて微妙で、わがまま放題である。
賢い人は心を防御しなければならない。
防御された心は、安楽をもたらす。
☆ブッダの言葉『ダンマパダ』より
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何が難解と言えば人の心ほど難解なものはないとお感じになっている人は今の世の中多いに違いありません。
『生きるとは赦しのレッスン』などと私のブログトップにも上げているせいかよくセッション中に「赦しのレッスンってどういう事でしょうか?」と質問される事があります。
そんな時私はその方に「今私にお話しくださった事こそ貴方に発生している赦しのレッスンと言えるのではないでしょうか?」とお答えしている時も多いもので、その方とすれば『赦し』とは通り魔事件などにおける被害者の家族や親兄弟などの理不尽な冤罪事件に苦しむそれを連想している様な場合も多い様です。勿論、それも当事者にとっては大きな赦しのレッスンに違いありませんが、日常に於いてこの『赦しのレッスン』と言うのは実は誰しも頻繁に体験している事でもあるのです。
『朝から言うことを聞かない子供への怒り』
『夫婦間のマウントの取り合い』
『夫婦や親子間の喧嘩でどちらから先に口を聞くまたは謝ると言う事に生じる葛藤』
『こちらの体調を全く思いやる事のない家族のワガママや攻撃に対する怒り』
『家計を全く理解しない姑の小言』
『夫に内緒で元カレとLINEでつながり夫のグチをこぼした事への葛藤』
『セクハラもどきの上司や反発ばかりする後輩への怒りやモヤモヤ感』
『友人複数間での会話でこれみよがしに自分ばかりをシカトする友達未満な人間への怒りや葛藤』
『フェイスブックでこちらからつける”いいね”の割にはお返しの少ない友達への不満』
『SNSでのチャットとリアルに会った時の態度の違いや豹変ぶりに対する困惑』
『交通ルールを守らない突如の割り込みや車線変更に対するブチキレ💢』
『電車内でエチケットをわきまえずくしゃみや咳をする人への嫌悪感』
※殆どセッション時にお聞きしたパターンです。
などなど…
まだ書き足そうと思えばいくらでも出てくるもので、この通り『赦しのレッスン』と言うのは大上段に振りかざしたものばかりではなく日常我々の生きるエネルギースペースに細々と現れるものである場合が多く、キーワードは些細、重大などに関わらずその事に自分が『葛藤を感じている』と言う事に尽きるものがあります。
人間誰しも『アイディンティティ』と言う信念を含め自分そのものを個別定義化した『これが自分だ!』と言う自尊の念や自己イメージと言うものを持っており、ここを脅かされたり侵害を受けたり否認されたりすると怖れが生じ防衛意識転じて怒りが湧き上がりやすいもので、さらにそれをマインドの中で整合性のある着地点を見いだす作業なども行われるものの、答えを得る事が出来ずに葛藤を生み出し自分自身にストレスを加え続ける時間ばかりが過ぎて行ったりもするものです。
私はヒーラーとして学びの時期にある頃、こうした葛藤と言うものを『画像』と言うメンタルイメージとしてとらえそこに貼り付ける自らのエネルギーがあればこそ怒りや怖れなどの葛藤が生じやすい事などを学んだものです。エネルギーワークとしてそうした画像に貼り付けた自らの不要なエネルギー(感情等)をクリーニングするスキルを実践する習慣を身に付けて行ったもので(これは今でも続けています)赦しのレッスンの『サイキックバージョン』とでも言うべきものですが、即効性(当然手強い事象も)もあり、こうした学びをその当初に出来た事は恵まれていたと言えるかも知れません。
私がセッションで見てきた強い怒りや葛藤を感じるパターンに多い人の特徴として、真面目で正義感強く情の深い人なども多い反面、幼少期に受けた親からの虐待や暴力、学校で受けたいじめが情操に影響を及ぼし常に自らを被害者のスタンスに置く習慣のある人や、極端な例では環境や他者を暴力装置として見る視点や視座が染み込んでしまい、愛ある見方が出来ず真綿で首を占める様に世間を狭くしてしまい苦しんだあげくに私の元を訪れる方などもいたもので…
こうした頑なに閉ざす人でも怖れや葛藤の『元となる画像』に気付く事で記憶に癒しが生じて穏やかで快活な生き方へとシフトして行ける場合も多いものです。『赦しを緩し』と表現する人などもいたりで言い得たものもあるのですが、赦しと言うと何か無理やりにでも自分に起きた不利益だったり不快だったりする状況に難解なスピリチュアルな格言を当てはめて高尚な意味合いに転化しなければならないと考える人も多かったりしますが、決してそんな事はなく、簡単に言えばそこにとどまらずに『それが結果として人生と言う長いスパンで考えれば得だから、とっとと通り過ぎる人であれ』と言う事をその人のケースに応じてお話しさせて頂く事も私の場合多かったりします。
出来事、特に強い感情を伴う人間関係に於ける不快な状況は、それが家族であろうと他人であろうと脳内を占拠されるかの様な超リアルなものとしてその人の中では認識されやすいもので、こうした時と言うのは萎縮したり緊張したりで呼吸も浅くなり落ち着きを得ないものになってしまいます。
こうした時に微笑んでいるのがエゴ(自我)と言うもので、猜疑心や不安を煽り対立や争いに向けてスパークさせる働きさえ見せるものですが、煽り焚き付けておきながら終着点については預り知らぬと言う無責任なもので、かと言ってエゴなりの和解案や赦しのスタイルと言うものもあり、それこそが私達が日頃見慣れた『条件付きの赦し』と言うものなのです。
『謝ってきたから今回は勘弁してやる』
『慰謝料払ってくれたから今回の事は忘れてあげる』
『こちらの被害に見合った賠償金積んできたから訴訟は取り下げ様』
『土下座までするならしょうがないか…』
『それ見たことか!ざまあ見ろ!まあ気も済んだからこれでいいや』
『まあ今回ゆるしてやる事で貸しも作れるし後々奴を利用する事だって出来るさ』
など、それは常に条件付けされた駆け引き込みの赦しと言うものであり、裁判所の判決文でよく言われる『被害者心情に配慮して』は対価を求める赦しの基準として私達人間社会に浸透している赦しの鋳型でもあります。これは犯罪抑止力としての死刑制度、もっとマクロに見れば平和抑止力としての核保有と言う事に於いても同根の問題を孕んでいるものですが、かつては極道社会に生きた私にとってそれは『殺られたら殺り返せ、血で血を洗え』と言う裏社会の報復の行動原理に全く同じであり、これを言うと組織犯罪の世界と同じにされたのではかなわないと怪訝な顔をされる人も多いのかも知れません(笑)
でも、それが表であろうと裏であろうとエゴの力学に変わりはないもので、もっと極端に言えば人を一人殺めた人間がおぞましい殺人者として告発非難されても、国家間などの戦闘で百人も敵兵を殺せば英雄として賞賛されるそんな社会構造、そしてそこからもたらされる社会通念を当然の如く受容して生きている私達人間でもあるのです。
そんな人間社会の背景からか赦しなどと聞くと…
『何を綺麗ごとを💢そんな事で世の中収まりゃ苦労いらねえよ』
『何でお人好しのバカみたいにこちらばかり赦しの姿勢で臨まなきゃならないんですか?正仙サンあんた元極道でしょ、そんな事言ってて歯が浮かないわけ?』
『社会正義の上でも制裁や懲罰は必要だし赦しなんて何の実行力ももたないし解決策にならないではないか!』
『凶悪犯罪による犠牲者の家族の被害者意識に配慮した死刑制度だってあるのだから、当然報いとして攻撃や罰を受けるケースだって認められて当然!』
など受け入れ難いものを感じる人も多いもので、人間社会を生き抜くには『赦し』など実際的ではないし、綺麗ごとの道徳論としか響かない人も多いのかも知れません。でも、これを書いている当人はかつて常在戦闘とでも言うべき武闘派組織の傘下組長として極道の世界を生きた人間であり、何が綺麗ごとでまたそうでないのか?社会の裏側で散々見て自ら経験してきたものであり、お花畑に妖精や天使が舞うだけで確たるものを感じぬ話しなどする輩ではないのです(笑)
この世界だけが全てでただ一度きりの生ならば確かに赦しなど有名無実で何ら意味なく闘ってもネジ伏せてでも自分の求めるもの欲するものを奪う生き方こそ全てとなる事に必然なものもありますが、宗教やスピリチュアル、神や仏など信じていない人間でさえもおぼろげに死後の世界や輪廻転生がある事を信じていたりするもので、現実をゼロサムゲームの場として見たり、適者生存の競争や争闘の日々に巻き込まれている様ではあっても、この内面に差し込む僅かな疑惑や気付きの芽は必ず人生のあるタイミングで発芽する事に於いてスピリチュアルであろうとなかろうと関係ないものがある様です。
(人によってはこうした気付きの顕現をブロックし来世に持ち越す方もいるかも知れませんが、現在、霊性に目覚める心の許容量、気付きのスピードはかつてない程のレベルで早い様です)
私が獄中でスピリチュアルな気付きを得た事やそれ以前の若き日には致死量に至る覚醒剤をブンブン注射し臨死体験、幽体離脱など体験した事などこれまでも書き記してまいりましたが、この時も若気の至りで見栄と虚勢の極道の世界に惹かれる気持ちが強く生き方の変更を伴う全的な気付きには至りませんでした。でも、それでも究極人間に死と言うものはなく、意識は間断無く永続して行く事が分かった様な気がしたものです。
『握手と拳骨』『友好と恐喝』と言う様な相反する二面性を巧みに使い分けるに敏なアウトレイジな世界を生きた私にとって、裏社会から抜け出てその後に進んだスピリチュアルな世界で往々にして垣間見る神のイメージや私達人間との関係性と言うもの…それは暴力や喪失、戦争や病気、貧困さえも神が何らかのメッセージを携えて微笑みさえ浮かべて私達人間に体験させていると言う懲罰ありきの二元性の神のスタイルと言うものであり、元来が天の邪鬼な私などは…
『そんな神様、ギャングのボスといったい何が違うと言うのか?』
『そんな神様の何を信頼せよと言うのか?』と…
大きく?が点灯したもので、答えを得るまでに自分なりの試行錯誤と言うものもありました。こうした時期に影響を受けた書物として『神の使者』(ゲイリー・R・レナード著)『奇跡講座』(ヘレン・シャックマン著)などがあり、いずれもこの世界が神(宗教を離れ全的な)から分離したと言う『夢』から派生している『幻想』であると喝破する内容で(仏教的な一面もあり)間断無く人や出来事を通して幻惑するエゴ(自我)から逃れ、誰しにもある聖霊(内なる神、ハイアーセルフ、ハイヤーマインド)と共に『赦しの実践』を行う事により心に恒常的な平和や平安を招来するという内容です。
これらの本を読んでいるとポジティブとかネガティブなど関係無く、エゴの磁場が席巻するこの地球村に於いては思考を見張り訓練されたマインドがなければ何もなし得ない事(それは経済的な成功と言うより解脱、真の覚醒に至るプロセス)を教えてくれているかの様であり、これこそが人生で経験する快、不快の出来事にとらわれる事なく全てはこの地球という『幻想道場』に来ると決めた時に『エゴによって書かれていたシナリオ』通りに展開している(家族構成から人との出会いの全て)と理解し、そもそも全てが幻想なのだから真の意味で自分が喪失したり被害者たり得る事はないと『肉体こそ全て』と意識を外へ外へと向けさせるエゴのトリックから逃れて霊的な視点視座を身に付ける事が心の平安の上でも大切なのですが、これもエゴが仕掛ける目の前にある人や出来事に飲み込まれ、感情の虜になる時吹き飛んでしまう事も頻繁に、自分を正当化する為にさらにエゴは攻撃を投影する相手を用意さえしてくるものです。
これを繰り返している内に自分が何処にいるのか分からなくなってしまうのも人間であり、心を落ち着けたいが為にこうした時期瞑想や座禅などをしても一時の気休めにしかならず、決定的な人間関係の破綻や挫折などハードな経験を迎えるその日まで(勿論ソフトな着地も)繰り返しまたそのスピードや起伏の激しい時と言うのはその人自身の大きなエネルギーの変容、転機に差し掛かっている事など、自分自身のこれまでを振り返っても頷けるものがあります。
赦しとか幻想などと言うと、何か泡をつかむ様で人間の熱き血潮を否定し現実逃避の戯れ言の様に思う人がいるかも知れませんが、それは全く逆で愛する人ひとつとって見ても、姿や形を失えば途端に喪失感に苛まれる私達人間の愛であり、でもその背後にある圧倒的善念とでも言うべき『心の総体』に思いを向ける時、愛する人はおろか他者と見える者との境界さえ本来無くスピリチュアルで言われるところの全てが一つであり他者はいないと言う真実『ワンネス』の片鱗さえ見え様と言うものです。
(だからと言って誰かれ構わずハグしてくださいと言う事ではありません 。ましてやコロナも流行っていますので。笑)
『神からの分離の夢』と言う事について書けば途方もなく長い内容になるので割愛しますが、本当は世界から個人に至るまで混乱や争闘の原因の源はここにあるもので、そこに加えて千も二千もあると言われる過去生、輪廻転生から持ち越してきたカルマや課題が配置や役者を変えて今生でも『エゴとの契約』で定めたタイミングで映画の『用意、スタート!』のカチンコの様に発生するのであり、因果応報で過去生で人を傷つけ意地悪をすれば今生の何処かのタイミングで今度はそれを我が身に引き受ける経験をする事に於いて必然なものがあり、こうした事だけ踏まえても人には優しくせざるを得ないと思えないでしょうか(笑)こうした事は輪廻転生に於けるジェンダーの変遷にも売春婦から警官にと言う職業の選択にも、貧者か富者かと言う事にも反映されるものがある様で、前世が金持ちなら今世では貧乏(勿論改善の余地はあります)今世で金持ちなら前世では貧乏だったと言う具合に変換されるものがある様で、そうした意味で言えば金持ちの人間も『今回はたまたまアンタの番だよ』と言うだけでことさらに羨む必要など無いのかも知れません。セッションでこれに類した過去生の記憶をお持ちの方などのお話しを聞く機会も今まで多かったもので興味深いものがあります。
こうして考えると世界情勢も個人に於けるドラマも自らが監督兼脚本家兼主演俳優も兼ねている映画に見立てる事も出来るもので、腹の立つ出来事も悲しい別れもそこに関わる家族や他者も、皆本当は自らがキャスティングし必要必然なタイミングで生じさせていると、今いる場所から少し飛翔して高い場所から全体を見渡す事も感情の虜、エゴの餌食にならぬ良い方法と言えそうです。
別にエゴが悪いと言うわけではなく、人間の存在自体が常に主体と客体を思考の中で生み出す以上、比較対象などを発生させ常にエゴは目の前にあるのであり、食事をするのもエゴであり(笑)肉体を持った自分としての自己実現や富の追求でもエゴと共にこの現世を思いっきり楽しんだら良いに違いありません。ただ心の主軸をエゴに奪われぬ様自分の思考を見張る習慣も大切で、これは瞑想や座禅を組む習慣に代替えされるものもありますが、人間関係に混乱や葛藤が生じた時は瞑想時でも胸(胸骨にあるハートチャクラ)に手を当てて自分の頭上にゴールドの光の球体があるものと観想しその光の球体を聖霊(ハイアーセルフ)と思い、自分が混乱を感じている事を具体的に話し…
(声に出して相手の名前なども)
『今の状況に於いて私のすべき事があれば教えてください』
『この状況や〇〇さんとの関係性に癒しがもたらされる様私をサポートし助けてください』
などと語りかける習慣を持つと良いかも知れません。一度や二度行って『やーめたー\( ̄0 ̄)/』では答えももらえませんが(笑)根気よく習慣とする事で必ず貴方に分かりやすい形で答えを受け取る事が出来る様になります。
※家族や身内とのトラブルや葛藤が生じた時なども静かな時間をたとえ10分程度でも取り、同様の事を行います。
他者との人間関係の不調和やいじめを受けたり事件性のある明らかな侵害が発生している場合など、関係窓口への相談はもとより警察への通報、被害届けに迅速な決断をしなければならない事など今までご相談を頂いた方にお話しさせて頂く事もありました。
警察の通報には至らずとも明らかに波長の違いや相性の悪い相手と言うものはいるもので、赦しのレッスンとはこんな時無理やり相手の姿を美化したり仲良くしようと神経衰弱になる事ではなく、挨拶があれば挨拶を返す、話しかけられれば軽くいなす程度の返事で距離を取る事も大切で、ましてや罪悪感など必要の無い事であり、相手に困惑や混乱を感じている『自分こそを赦す』のであり、こんな時『まあいいか!』とか『色んな考えありだよね』とガス抜きのワードを持っていると赦しのレッスンもしやすくなります。
こうした場合、前出のハイアーセルフに問いかける方法もぜひオススメなのですが、以前の記事にも書いた様に鏡に向かって『〇〇さんも自由なら私も自由!』と相手の姿も思い浮かべてアファメーションするのも効果があり、これは家族間における不和や感情の縺れの解消につながる場合も多かったりします。
とかく、家族でも他人でも自分に対してひどい言葉を投げつけてきたり相応の態度を取る時と言うのは自分自身の内面にある何かが相手に映し出されている、もしくは相手の言葉に変換されている場合も多いもので、頭では『そんなハズはない』と思っても、実は自分自身に不甲斐なさを感じていたり、他の人間に硬い態度や攻撃する言葉を用いていたりしている事にハッと気付かされたり💦そう言う意味に於いても人は自分自身の鏡でもある様です。
子供との関係に於いて反抗期の若者などとの距離の取り方が分からなくて困っている親御さんも今の時代多いものですが、そうしたケースでは暴力や非行、薬物使用などの兆候が見られない限りは子供に対しては不干渉で会話も傾聴に徹する事をオススメする場合が多かったりします。子供の為に何かをしなければと言う親の義務感が親子の関係に滞りを生じさせている場合も多いもので、『そうなんだね』ととりあえず肯定の相づちで子供の話しを傾聴している内に子供の方で答えに行き当たると言うのも傾聴の功徳と言うものかも知れません。
人間関係に混乱や怖れを感じ家族や周囲にその原因があると話す方などに『貴方の内面が平和でないのに何で周囲が落ち着きますか?何で平和になりますか?』と、これまでもよくお話しさせて頂く事の多かった愚僧であります。
                              合掌

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密教僧侶ヒーラー正仙
元ヤクザ組長から密教僧侶ヒーラーになった男
真言宗・大元吉祥堂・堂主・ヒーリングルーム吉祥・主宰

かつて極道の世界に身を投じていたが、獄中にて
スピリチュアルな気付きが始まり、出所後堅気になり、
その後真言宗僧侶と成る。

あたり前に生きる事が難しい今の時代、
自らを不安や恐れと言う闇の中に囲い苦しんでいる方達に
それぞれの方が本来持つ、
あるがままの素晴らしい光や輝きに気付いて貰える様に

愛を基にしたパワフルなヒーリングやリーディング、
講演を心掛けて行きたいと思っています。


 

 

 
 
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