隣のまたその隣に住むご近所さんが故郷の山形から正月休みを終えて帰ってこられた様で野球少年の息子さんを伴って新年のご挨拶にみえてくださいました。
いつも夕方から夜にかけてリトルリーグで四番でピッチャーをつとめるこの少年が玄関の灯りをたよりに素振りをしていたもので、父親である男性がよくバドミントンのシャトルを使ってトスバッティングのコーチをこの少年にしていたものでしたが、それを玄関先に腰掛けて見守るお母さんの姿など暖かいものがありました。
近所の新築一戸建ての家にこの家族が引っ越して来た頃はこの少年もまだ小学生にもならないあどけない子供で、私の姿を表で見かけると好奇心旺盛な人懐っこい表情で「おじさん、おじさん、何やってるの?」とよく話しかけてきたものでしたが、そんなこの子も今年の春からは中学生…身長も現時点で中学生に負けぬ長身で、口ひげもうっすらと(笑)子供ながらも逞しさも出てきた様です。今度は中学の野球部に入り頑張るんだと目を細めて子供を見る様にお母さんが話してくださいました。
「光陰矢の如し」とはこんな日常の些細な事からも感じる事でもある様です。
この親子が玄関先で話す背中越しには昨年の暮れに木造家屋を取り壊し整地したばかりの空き地が見えたものです。昭和三十年代~四十年代初めの建築と思われる木造家屋、住んでいたのは戦中、戦後とシベリア抑留を体験した八十代のご老人でしたが、大腸がんの手術なども経験し腹からストマを下げながらも元気に仕事などもしていたもので、よく近所の銭湯でも言葉を交わした方でもありました。
そんなこの方も最近突如胸の苦しみを訴え、そのまま病院に搬送され息を引き取ってしまいました。この方の住んでいた土地家屋はメッキ工場を経営するお向かいさんが買い取ったのでしたが、実は建物が未登記物件だった様で、簡単に言うと建物の登録の無い空き地にこのご老人は昭和から平成にかけて何十年もの間住んでいた理屈になり、土地を購入したお向かいの旦那さんも「まったくやってくれるよ」懐古と苦笑いが入り混じったかの様な表情を見せていたものです。
この数年の間でも何人ものご近所の方が黄泉に旅立って行かれました。中には白昼から泥酔し路上に仰向けに寝てしまうオッサンやコンビニの前にウンコ座りをしてたむろする高校生に義憤を感じてか、カチコミをかける男性(笑)普段より着物姿も凛としたご婦人など、しばらく姿を見ないと思えば訃報を聞かされる事も度々…人間、五十の歳を過ぎると死を意識し始めるとはよく言われるところですが、それは歳が繰り上がり、健康を含めた耳に入る情報も相応のものになる事にも一因がある様です。
でも、かつては極道の世界に生きた私にとって見栄と虚勢の裏を為すかの様なその世界に生きる人間の死と云うもの、非業な死もあれば人間の赤裸々そのままの死もあり、いつも死と云うものは意識の隅にあった様な気がします。
死は肉体を持った人間にとって最も忌むべき事、話題にすればネガティブだとか目の向けどころが明るくないとか色んな意見はあるのかも知れません。ここで死後の世界とか霊界の事など書くつもりはありませんが、若き日に致死量に至る覚醒剤の注射で幽体離脱なども経験している私にとって、死と云うものの先にも間断なく継続されて行く意識がある事は理解しているものがあります。
本当は身近な人の死や近所の訃報にさえ「小さな死の訓練」を私達はさせられているのかも知れません。
こうした事をネガティブと見るのは自由ですが、やがて誰しにもくる順番、それもいつどの様な形でくるやも分からず、避け様の無い事象に意識で蓋をしてしまう事はかえって死と言う一つの「違う次元への移動のセレモニー」を空恐ろしいものにしてしまい罪悪感を強固にしてしまうものです。
山本常朝の葉隠の有名な一節「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とは極道当時、死をも恐れぬ爆発行動を賞賛するものとして私の中で賛美するものさえありました。でも、今ではそれは違う観点のものに変わりました。人間、今日が最後と思って死を意識の表に引っ張り出して人に接し仕事にさえ臨む時、途方も無い無意味とさえ思えた人生の先行きや退路が断たれた様にさえ思え、自分の中で活性化しつまらぬ日常でさえ輝き出すものです。
これは実は、スピリチュアルで言われる「今この瞬間この時に生きる」と言う事や茶道で言われる「一期一会」の心得にも全く共通している事でもある様です。
野球少年のご家族がくださった写真の「だだちゃ豆」は山形県鶴岡市名産の枝豆だそうです。
さては、私が飲んべえの和尚だと思われたのでしょうか。。笑
合掌