※向かって右より愚僧、新垣玄龍、植村心一の面々
一昨日より先月に続いて、得度式に立ち会いの為伊勢を訪れていた私ですが、玄龍さんがオーナーのゲストハウス愚狂庵にこれも前回同様、ご厚意から一泊し、得度式の受者、腸脳療法で東奔西走の活躍を見せる植村心一さんも交えて、玄龍さんのお手製の鍋料理などを頂きながら楽しい時間を過ごしました。
(極道の世界にいた人間は、意外かも知れませんが、料理ずき、鍋奉行の人も多い)。
元極道の僧侶二人が話す心得とも、雷とも、アドバイスともつかぬ事、聞いている植村さんからすればカルチャーショックの一面もあったかも知れませんが、発心(ほっしん)から得度にいたる時期と言うのは、内面の変化や価値観の変動、そしてそこに抗うものが混在しやすいもので(実生活の変化も)その人にとって霊性の上で成長期に差し掛かっている場合も多い様です。
※発心(ほっしん)
発心とは、仏教の言葉で悟りをえようと心を起こす初めの段階を指す。
「発菩提心」の略語でもあり、菩提心を起こして、出家やお遍路などの決心をする際にも使われる。
菩提心は、自分だけが悟りを求めると言うものではなく、他を利する気持ち、他のためにも考える気持ちが、発心の考え方の根底にあり。
私にしても玄龍さんにしても元は極道世界の住人であり、様々な葛藤を乗り越えて今に至っています。心の中で鎧となり楯となり、身構え自分を固く難しくしてしまっているもの…そんな心の垢を落として「今までのあんたは死んだんだよ、これからは生まれ変わるんだよ!」と言葉は悪い様ですが、戒師より宣告を受ける得度式は、通夜葬儀の行法に共通するものがある事など、あまり知られていない事ではありますが、白無垢の白衣(びゃくえ)そのままにまっさらな気持ちで臨んでもらいたく、私と玄龍さんから翌日に得度を控えた受者の植村さんに餞とさせて頂いた時間でもありました。
※白衣(びゃくえ)法衣の下に着込む長襦袢などを指す。
翌日の昨日は午後よりの得度式まで時間がある事から、午前中は愚狂庵スタッフの中ちゃんこと中林さんが市内でも有名な骨董、美術品収集家の方の元へ案内してくれましたが、元より骨董ずきの私には垂涎ものの数々で、個人様所有の物なので、写真で紹介出来ないのが残念な程です(笑)
帰ってきてよりは、玄龍さんが近くにある興玉神を祀る興玉の森などを案内してくれました。ここも歴史を感じさせる場所で、いにしえの時代より祭事を行ってきた岩倉の様な場所もあり、とても良い氣を発していたものです。
玄龍さん、スタッフの皆さん、ありがとうございました!
合掌