☆ヘタレで弱いヒーラーがウケるのか!?…ヒーリング私記

 

 
 
「そのままのあなたでいいと思います」。
 
「あなたらしく輝けば良いと思います」。
 
「無理しないで~!!」
 
「みんな繋がっているよ~!!」
 
などなど、混乱の最中にあるヒーラーやスピリチュアルカウンセラー、チャネラー、セラピストなど、自分が心身共に疲れ消耗したり、何らかの恐れの最中にある事をブログで書き綴る時、そこに付くコメントも好意的なものだったり同情する内容が多かったりするものです。
 
こうしたコメントを目にして、「また頑張らなきゃ!」とか「俺は(私は)一人ではないんだ」と慰められたかの様な気持ちになるのも人間らしい事と言えます。
 
またこうしたコメントを付ける側でも、慰めや励ましなど優しさからのコメントである場合も多いかも知れませんが、スピリチュアルな分野で、人を癒す仕事をしている人間でも、自分と同じ様な事で悩み苦しんでいるその姿に共感し、また内心同じ仲間を見つけた様な安心感にホッとしてコメントを付けている場合も多いのかも知れません。
 
でも、人間と言うのは相反する心理も働くもので、普段はお金を取りセッションをしているスピリチュアルな世界の住人が、様々な恐れやトラウマ、悲しみや心折れそうな状況や、そこからくる心身の不調、不決断からくる焦りや倦怠感、または他者への不満や批判を繰り返しブログやフェイスブックに載せる時、読み物としては面白くても、調子の良い時は…
 
(あくまで例えとしてのワードで個人を特定するものではありません)。
 
「高次の波動に満たされたセッションでお待ちしてまーす!」
 
「怖れずに前向きに生きるヒントを当サロンで受け取ってくださいね!」
 
「私のセッションで愛と光で満たされてくださいね!」
 
「〇〇お得キャンペーン中!」
 
などの文字が並ぶ事に違和感を覚え「誰がブレブレのあんたのセッションなんか、お金を払って受けにいくもんか!」と天の邪鬼な気持ちが働くのも人間な様で、こうした感想を特定のヒーラーやスピリチュアルカウンセラーに抱いている事などを、今まで何人ものお客様が私に話してくださったものです。
 
「等身大の人間らしさや弱さ、愚痴などがウケていると勘違いしてるんじゃないのかしらあの人は?」と名指しで私に教えてくださった方などもいます(笑)
 
もちろん、ヒーラーやスピリチュアルカウンセラー、チャネラーやセラピスト、僧侶や行者、宗教家に至るまで、喜怒哀楽は勿論、痛いものは痛いと感じ、睡眠も取れば排泄もする事に於いて一般の方と何ら変わらぬ人間であり、決して鉄人ではないであろう事は誰しも知っている事ではあります。
また何を書こうが本来自由な事でもあります。
 
でも、読者側の人間の中には、スピリチュアルに生きる人間の論調の変化やパターン化されたものに敏感な方もいる様で…
とかく自分の心身のドロップの状態を誇張したり、何かの怖れに取り憑かれた様な事を書いてみたり、怒りのままの文章を吠えるかの様に書いてみたり、かと思えば反転するかの様に、自分に光がやって来ただとか、本当の使命に気付いたとか、新しいイベントや企画目白押しの内容を、失地回復の様に書いて見たりするものの…
 
またしばらくするとショックな出来事があったのか…
立ち直れない、寂しい、悲しい、集客できずどうしたらいいのか?などの人間らしい咆哮を繰り返すパターンもそこにはある様で、そうした内面の変転にとても敏感な読者の目もある様です。
 
以前、そんなブログを読んだと言うお水の花道出身のスピリチュアルカウンセラーさんが私に「セッションとかもしてお金もらってる『堅気』じゃないのにね…」と話してくれた時があったものでしたが、堅気じゃないのにとは面白い表現と思いつつも、それは『金をもらっているプロだろ』と云う事を、この方が言いたいに違いない事は分かるものがあり、私も一理ある事と思ったものです。
 
スピリチュアル側が怖れとする事、悩みとする事、ヘタレそうな事などは、ヒーリングやリーディング、カウンセリングなどのセッションを受けたいと思う方にもイコールな場合が多いもので、こうした事に答えを得たいからこそお金を払いセッションを受けに訪れてくださるのではないでしょうか?
 
たまの人間らしさの開陳(笑)なら愛嬌でもありますが、それも度を過ぎれば不安定で弱さばかりがクローズアップされてしまい、信頼してセッションを受けると云う心理からは後退させられてしまうものがあるのかも知れません。
 
何を書こうが自由意思の元に行えば良い事ですが…
自らの書くブログなどの文章に、スピリチュアルなセッションの紹介なり、誘導と言う意味を意図しているならば、やはり書く文章にも気を付ける事が必要な様です。
 
人をコントロールする事は出来ずとも、自らを律して行く事は出来るもので、文章で書く事は自己の内面の浄化にもなる良い面もありますが、自分の暗い思いやドロップした感情、何かや人への不満ばかりを書き綴ると、人間のマインドはそれを自己の現状として追認して行くもので、自分の周りの全てが曇ってしまいます。
 
逆を言えば、自分の書く文章は自己の内面を律する働きがあると言う事でもある様です。
高い山を登る時、まだ登り始めから「疲れた」を連呼していれば、実際に疲れるのも早く、億劫なものとなってしまいますが、それが口から出るのをグッとこらえ、汗の流れる中にも、森林のイオンシャワーを感じたり景観の美しさを感じて見る、こんな事一つでも、まったく違う感想になるもので、書く文章の自己の内面にもたらす働きにも似たものがあるのです。
 
自由なつぶやきや自己の観察ブログなら好きな事を書けば良いのですが、ブログやフェイスブックから集客を目論むなら泣いてばかりはいられない事、時には読者と逆転して自分の文章を見る視点も必要かも知れません。
 
「あるがままでいい」と言う言葉も最近のスピリチュアルで持て囃される言葉ではありますが、曖昧模糊な言葉ではあります。
スピリチュアルな業界に生き様とも、人として生きる事に変わらず、様々な決断をして行かなければならない事に於いて世間一般の方と何ら変わるところはありません。
 
何かを行う時、何かを新規で立ち上げる時、全ての条件が揃う事はないものです。それでも見切り発車して行かなければならい時があるのが人間でもあります。そんな時、私達のエゴ(自我)は、面倒から逃げたいと撤退するシンボルを求める傾向もあるものです。
 
そんな時、自らの弱さを披露した書き込みに「そのままのあなたでいい」と云うコメントに救われホッとするやも知れません。でも、それが怖れからくる不決断だったのか、決断の先延ばしだったのか、それとも賢明な判断だったのかは聖霊(ハイアーセルフ・内なる神)の知るところであり、スピリチュアルな世界に生きる人間は、瞑想やその他自分に適した方法で、聖霊との繋がりを心掛ける事により、初めは微々たる声かも知れませんが、自分に必要なメッセージも受け取る事が出来る様になり、書く文章にもやがてそれは反映され、赤裸々な中にも穏やかさを感じる文章となって現れる様です。
 
またこの逆に、自分や読み手を不安に陥れる様なガイド(何らかの霊的存在・亡者の霊なども)の影響を受けている場合もあり、こうしたケースなど、常に感情の起伏、一貫性の無い言動となってそれが現れ、躁鬱から事故や病気なども発症する場合もあり、自分に頻繁にメッセージが降りてくるなどと言う方は、酔う事なくライフスタイルの見直しなど、注意も必要な様です。
 
自己の内面の流浪を綴る文章も、読み手にとってはやがて飽きられてしまう事なども忘れたくないものです。
 
合掌

 

 

 

 

 
 
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