元極道の僧侶と言うと、欲望やどんな現実をも肯定するかの様な大胆な提言を期待する方も多いのかも知れません。
でも、アウトレイジな世界にいて地獄の沙汰から人間の見栄や欲望が描くものを見てきた私が言える事は、この娑婆(シャバ・人間世界)はどこまでも諸行無常な世界であると言う事でした。
【諸行無常】
しょぎょうむじょう
この現実の世界のあらゆる事物は,種々の直接的・間接的原因や条件によってつくりだされたもので,絶えず変化し続け,決して永遠のものではないということ。これに諸法無我,涅槃寂静 (ねはんじゃくじょう) を加えて三法印 (さんぼういん) といい,仏教の根本説をなす。
私が極道世界にいた若き日、その道の先達が私に言ったものです「ヤクザの約束は明日には消えるからの」と…
これは油断ならぬ極道の世界を一言で現しているかの様な言葉でもありました。その時々の力関係や何らかの要因で約束が反故にされたり、ねじ曲げられるのも日常茶飯な世界でもあり、
対警察、対組織、また組長とは言っても大きな組織から見れば小さな駒に過ぎず、金が入ってきても悪銭身に付かずのたとえの如く、一年を通して金に追われる毎日で、いつ下手を売り(へたをうる・ミス・失敗・失脚)上部団体から処分されるかも分からぬ緊張感などが尚更にそうしたものを色濃いものにしていた様な気がします。
でも私は「約束は明日に消える」と言うこの言葉を聞いた時に、幸せを望みながらもあらゆる苦しみに囚われる事に於いて、堅気もヤクザも区別はないものを感じ、全ての人間にあまねく向けられた人の儚さを言い当てた言葉の様にさえ思えたものです。
諸行無常と言えば、人によっては何か「無常」が「無情」に響いたり、言葉からくるイメージがネガティブで、豊かさとか、この世界での成功を否定されている様だと感じる方もいるのかも知れません。
でも、釈迦はこの世界を「苦の娑婆」と呼び、キリストは「無意味な夢」(ゲイリーレナード著書・神の使者より)と呼んだこの地球、宇宙から見れば青く美しい星の様であり、時には楽しい夢も見せてはくれる様ではありながら、どんなものにも滅びの芽が埋め込まれた破壊と再生の星でもあります。
美しいと思う大自然の樹木の根っこでさえ、電子顕微鏡でみれば生存をかけて他の木々と闘っている様子がわかると言います。
この私達の生きる世界が「幻想」である事は、今の日本のスビリチュアリティーの中では一部容認、一部否認のむきもあるもので、天変地異から不幸、事故、病気、災難、災厄まで裏側には神の意図があると言う二元性の神のスタイルは、神仏を畏敬する日本人の感覚としてとても受け入れやすいものがあるのかも知れません。
怖い仏も拝む密教僧でもある私がこんな事を言うのは言語道断かも知れませんが…笑
でも、もしそうならば、神と言うのは握手とゲンコツを巧みに使い分ける大国と言われる国の大統領や、密告と報償、懲罰と恫喝を乱用しまくるどこかの国の暴君といったい何が違うと言うのでしょうか…?
この世界が、まるで体験型の劇場の様な幻想の世界と言う事に抵抗を覚える人に多いパターンとして
「責任の所在が無い」
「愛する人や亡くなった人も幻想だと言うのか?無慈悲な!」
「この世が幻想ならやりっぱなしで悪い事をしたって、人を殺したってよいではないか!」
「そうした無責任な信念の無い考えが戦争や貧困を生み出すのでは?」などetc…
でも、これこそ「エゴ」が「待ってました!」とほくそえんでいる事でもあるのです。
エゴは時には良い夢を用意して肉体に目を据え付けさせて、真の霊的な気付きや悟りなどと言うものに目が向かない様に阻止する働きさえしてくるものです(当然、宗教やスピリチュアルな仮面さえかぶってくる時も…)
エゴは常にそれが自分であっても他者であっても「身体こそが全て」「お前こそ(他の誰かも)特別だ!」と囁くもので、これには「特別の愛」や「特別の憎しみ」をもたらすパーソナリティーを持つ相手が含まれるものです。そこには常に変化が伴い、究極を言えば月日と共に善も悪に変わってしまう事に於いて、信じた愛も月日と共に疲弊から憎しみにその姿を変えたり、単純に政治家や芸能人の転落劇や晩節に見られる姿にもその鋳型を見る事が出来ます。
でも、それに対して誰しにもある聖霊(内なる神・ハイアーセルフ)は、宇宙は無い、世界は無い、他者は存在しない、自分の見えるものは自分の肉体も含め、社会的な出来事さえも全て私達がスケープゴートしたイメージである事を繰り返し私達にメッセージとして送ってきている様です。
宇宙は無い!世界は無い!などと言われると「そんな馬鹿な!何を証拠に言うのか?」と考える人が多いに違いありません。でも、本当は私達が肉体と思っているもの…
肉体の中に霊魂が宿ると言うのは古来より言われている事でもありますが、本当は壮大な心の中に肉体が置かれていると言うのが正しい様です。
私はまだ成人間もない頃、覚醒剤の多量摂取でホテルの一室で死線をさ迷った時などもあり、その時クリアな意識と共に幽体離脱なども体験したものです。
その頃は極道世界の住人で、スピリチュアルなど全くもって興味の他でしたが、その時の摩訶不思議な感覚、虚空から倒れている自分を眺めていた幽体離脱の体験などを人に話せば「薬にボケて物を言ってやがる!」と馬鹿にされかねないものを感じ、自らの中で封印してしまったものでした。
それでも…
「死と呼ぶ状況にも意識は途絶える事なく継続して行く事」
「私達が知らないだけで明らかに移動し連なる未知の領域がある事」などを深いところにダウンロードされた様な感覚があったものです。これからさらに十数年を経て獄中での不思議体験、気付きにこれが持ち越された感もあります。
本当の私達の実在は、神との一体場にあり、不変で恒常な神の愛と共にあると言うのが真実の様です。でも「神と離れたらどうなるのか?」と言う神の一人子である私達の狂気が壮大な輪廻転生と言うトリップを生み出し、様々な国に時代と共に生まれ、その都度性別もスワップし、時には他の惑星のヒューマノイドとして生きて見たり、様々な国の民族として何百もの様々なドラマを繰り広げ、また輪廻転生して霊性のビュッフェに並ぶのが私達人間の姿の様ですが、ここでもスピリチュアルやニューエイジの風潮として、「神が経験を求めているから輪廻を繰り返す」と言う考えがあったりしますが…
でも、それならいったい、いつになったら輪廻転生は終わるのでしょうか…?
よく悟りを得て輪廻転生を終えると言う方がいます。でも、いったい何を持って悟りと言うのでしょうか?
「多くの弟子や信者に囲まれている方が悟りに至っている方なのでしょうか?」
「深い瞑想の境地に達する事が悟りなのでしょうか?」
「ヒーリングやチャネリングなどスピリチュアルな能力、または神の声や見えざる存在の声を伝えるなど霊能力に長けている事が悟りなのでしょうか?」
「寝食を忘れ、様々なボランティアや弱者救済の活動をする事が悟りに直結している事なのでしょうか?」
行為だけでは人間の内面はわからないものです。
とても評判の高い僧侶や宗教家、斬新な治療法を提示する医師、スピリチュアルな世界の著名人なども、その近い筋からとても人間的な姿(異性のトラブル等)を聞かされる時がありますが、この二元性の星地球村は、人の功罪を共に炙り出してくるものです。
悟りと言う時…
どうやらそれは「赦しのレッスン」に直結している様です。
どうやら私達は何年も前に封切り済みの早朝興行の映画をあくびを噛み殺して観る様に、この現世と呼ばれる場所で、本当はすでに「終わっている」事を追体験していると云うのが本当のところの様で…
そうした意味からすれば、「起きるべき事は起きるし経験すべき事は経験する」と云うのがスピリチュアルな実相と言える様です。
そんな中で私達に問われているのは、エゴの決断と台本でその経験を選ぶのか?聖霊(内なる神・ハイアーセルフ)の決断と台本に従うのか?と言う事の様で、スピリチュアルでよく言われる「自由意思」も、究極はこの選択に発揮される事の様に思われます。
聖霊の決断と台本には「赦し」が伴います。赦しと言うと、成功や豊かさ、自己実現とは相容れぬかの様な響きを持つかの様ですが、でも、人として生きて行く上でブロックや葛藤を生じさせる時と言うのは、それが他人であろうと、身内であろうとそこには必ずと言っていいほど「人の影」があるのではないでしょうか?瞬時に感情に飲み込まれる傾向のある私達人間にとって、赦しの実践ほどシンプルでありながら時に手強く難しいレッスンも無い様です。
でも、これを実践して行く時、アファメーション化した概念としての愛などではなく、本当の意味での愛が顔を出し、総じて人の見方も優しいものになり、段々とエゴが氷解する事から心の上でもエネルギーや肉体の上でも軽くなり、人間関係を初めとするあらゆる事に穏やかさを見出だす事が出来る様になります。
これも赦しのレッスンと云うすぐに結果の出ぬ「玉ねぎのかわむき」の様な事をしている様でありながら実は天界に徳を積む生き方でもあるのかも知れません。
その過程で本来はハードな経験をするはずだった人生の行程も聖霊がカットし、益々の穏やかさや心の平和としてフィードバックしてくれるものの様です。
徳積みとはよく言ったものですが、聖霊に下駄を預けた徳積みと言うものが、長期的に見ればいちばんブレずに内面の豊かさや安心を得ることも出来る、この世を生きる為の護身術なのかも知れません。
合掌