ある時…セッションにお越し頂いたお客様から「気付きとか学びが大切とスピリチュアルな集まりでは言われたりするんですけど、正直、何が学びで気付きなのかよくわかりません。正仙さんの場合はどんな時にそれを感じましたか?影(シャドウ)と言う事もよくブログに書かれていたと思うんですけど、どんな意味なのでしょうか?」と聞かれた時があります。
スピリチュアルな気付きとか学びと言う時、人によっては、スピリチュアルなクラスやセミナー、ワークショップ、または講演などで覚えた新鮮な気付きや感動、またはその場で知り合いになった方との出会いに過去生やソウルメイトなドラマを投影して酔いしれたりと…こうしたちよっとしたサプライズの様な出来事が、気付きや学びと思っている方も案外多い様です。でも、その傍らでは、配偶者や親や子供、姑や友人、会社の人間関係から不倫相手に至るまで、日々人には言えぬ人間関係から生じる葛藤を経験していても、そうした事は私的な事であり、「スピリチュアルな気付きや学びの適用外」と思われている方が多いと言ったなら意外でしょうか?
私などからすれば、こうした日々現れる葛藤を生じさせる人間関係や出来事にこそ気付きや学びの種がある様にお見受け出来る場合がその殆どでもあります。ご本人からすれば、相手に原因があり、自分は被害者との立場を頑なに堅持している場合が多いもので、そこにその方が学んだと私に語るスピリチュアルや宗教上の教えが全く反映されていないケースなどもお話しを伺っていると気付かされる事も多いものです。
こうした場合、その方にとってスピリチュアルとは、神社やパワースポットなども含め、神や仏に関わる個としての自分の在り様(祈り方、祈りの言葉等も含む)、自分が親しみを感じる天使やアセンデッドマスター等の存在、ソウルメイトに代表される、過去生で親しい関係だったと思われる事による特定の人への親密感、同じ宗教やヒーリングの流派、グループなど、共通の利害のあるコミューンなど…スピリチュアルな言葉で綺麗に括れる人間関係だけが、スピリチュアルに根差したものであると限定してしまっている気さえする時があるものです。
スピリチュアルな教師を自認する方は世に多いものです。
私なども今でこそ密教僧侶ヒーラーとして、多くの方のセッションをさせて頂く様になりましたが、振り返ってみると、スピリチュアルとか、密教僧と言う前に、ヤクザ当時の心の垢を落とし、まずは堅気の感覚に戻す事が前段として大きな課題としてあった様な気がします。
もう何年も前の事…ある時、私は遅い時間に某牛丼のチェーン店に行った時がありました。
普通に並みの牛丼をつゆだくで頼んだつもりだったのですが、カウンターに座る私のところに何故か牛丼が二つも来たもので、それを店員に問いただすと「あれっ、お客さん、普通の並みとつゆだくの並みとを二つ注文されたと思うんですけど…」と、超過の牛丼は訝しげに首をかしげながら下げはしたものの、自分に非はないと言わんばかりのこの店員の口ぶりに私も少々カチンと来てしまい…「一人で二つも牛丼食べられるか考えたらわかるだろう?」と言う私に「ええ、でも色んなお客様もいますからね、ええ、まあ、でもわかりました、すいませんでした」と決して得心などしていない、舌打ちせんばかりにふてくされた表情を顔に出すこの店員に、全国広しと言えども、子供からお年寄りにまで親しまれるこの牛丼屋に、こんな店員がいるのか!?と思うと益々腹も立ち、「おいっ、何がおもしろくないのかは知らないが、こっちも頼んでいない事で舌打ちされる覚えはねえぞ、わかったのか、わからねえのかどっちだよ!」ともう一つ責めの文句をこの店員に吐いたのでした。
その時、私の座るカウンターの斜め左側に座っていた人間が私の言葉に 化学反応を起こした様で(笑)「うっせえんだよ!人がメシ食ってる時にガタガタ騒いでんじゃねえよ!聞いてたんだよ!俺はあんたが牛丼二つ頼んでたのをよ!」と牛丼屋の店員に加勢し、私に喧嘩を売るかの様な物言いをしてきたものです。
この時期と言うのは、得度し、裏社会との縁を断ち、ヒーラーとしての本格的な学びを始めた時期でもありましたが、それだけにそれまで良しとしてきた極道当時の粗さと言うものを突きつけられる様に繰り返し見せられる事も多く、それがスピリチュアルな世界で言われる「玉ねぎの皮剥き」とわかっていても、勝手の違う世界で、どこに着地点を見出したら良いかわからぬもどかしさや寂しさも感じていた頃でもあったのです。
この時の私の格好と言えば、目深にキャップをかぶり寝間着がわりのトレーナーの上下に厚手のはんてんを羽織り、サンダル履きと言う出で立ちでした。私を威勢良く怒鳴り付けてきた人間はと見ると…三十代後半位の男で、恰幅も良く、頭を短く刈り込み、作業着の上下を着ている袖のあたりからは今風な洋物のTATOOが見えていました。堅気ではあるのでしょうが、服役の一度や二度はある様な、そんな風体を感じさせるものがありました。私はこの男が私を罵倒した瞬間に、キャップを脱ぎ、はんてんのポケットにしまいこみこの男から目を離しませんでした。
するとこの男…一度は私を睨む様に見たものの、慌てて目を伏せ顔を背けたもので、この時に私は店の中で騒ぎを起こせば即通報される事から、さっさと勘定を済ませて表でこの男を待っているつもりでした。
そう…この時に私の頭の中はこの見知らぬ男にコケにされた事への怒りでいっぱいであり、きっちり帳尻合わせ(報復)をしない事にはどうにも気が収まらなくなっていたもので、アウトレイジな世界にいた頃の信念を呼び戻し、得度し仏門に身を置いている事も、スピリチュアルな学びも自分の中では一瞬にしてふっ飛んでいたのです。
現役のヤクザの頃でも牛丼屋に入る事はあったものです。でも、その道に生きる人間は、格好は大人しくしていたとしても、話し方や発する雰囲気から分かるものがあり、飲食店で堅気の人間からあからさまに喧嘩を売られる様な事は無いものです。まだ私が若い頃などは「ヤクザはな、堅気に食べさせてもらってるんだから堅気とは喧嘩するな」「普通の喧嘩(堅気の人と)はするな」などと言う事を戒めの様に言う、年季の入った極道も多かった様な気がします。堅気に食べさせてもらってと言うと、いかにも感謝の意味合いさえ感じられますが、「堅気を泣かせて食べている」と言うのがこの言葉を裏打ちしている本当の意味でもあります。
もし、現役の極道の頃に、この牛丼屋の様な場面に出くわしたとしたならどうだったのでしょうか…?堅気とは喧嘩はするなと言うのも建前の部分があり、悪党を面前でコケにすれば相応の報いはあるものです。自分を慕う舎弟分や若い衆(子分)が一緒であれば、「コラッ、ガキが!誰に物言うとんじゃ!おどれブチ殺すぞ!表に出ろコラッ!」と自分の下にいる人間が脇から一発カマシて「ス、スイマセン」と怯む様な相手ならば、「馬鹿野郎!先見て(相手を見て)物言えこのアホが!」とさらにカマシたところで「うん、もうえわ…」と私が合いの手を入れたところで何事も無かった様に終わります。
でも、フフンとたかをくくる様な相手だと、「兄貴、スンマセンが、自分用事が出来たので先に帰っててもらえませんか?」などと私に声を掛けてくる下の人間に対し、「おう、そうか…あんまり無理せんでいいからな」と私は答えるに違いないのです。
「あんまり無理せんでいいからな」とは、警察に飛び込まれぬ程度に痛めつけてやれと、案に暴力を示唆し、承認している言葉でもあるのです。
こうした暗黙の了解は裏社会独特のものがあり、マッチポンプや出来レース、あるいは三味(線)を弾くなどともその世界では言われ、企業への恐喝や、ヤクザがヤクザをハメる様な画策が為されている場面などに於いても、複雑な事情をデッチ上げ、被害者を装い近付いてくる人間が、実はフタを開ければ黒幕の一味などと言う事も珍しくないもので、よく言われる「阿吽の呼吸」に裏も表も無いと言うのが本当のところかも知れません。
極道当時の私であればこんな時、その時の状況もあるのでしょうが、さっさと勘定を済ませ、私を怒鳴り付けてきた人間に一瞥をくれる事もなく店から出ていってしまうのかも知れません。何故なら、自分の下にいる人間が自分に代わって相手に鉄槌を下すのが分かっている上に、暴力事件として通報された場合など、類が及ばぬ様に現場から離れると言うのも、その世界ならではの所作であり機転だからです。
私の下にいる人間が「自分、用事が出来たもんで、先に帰ってもらえませんか?」と私に言う時、これから先の事は万が一、事件になっても自分独自の判断でした事であり関係の無い事(私と)と私に事前に了解を取る意味があるのです。
言葉には出さずとも意志を疎通し、人を傷付ける時や陥れる事にも発揮される深謀遠慮と言うもの…そこに裏社会に生きる人間の絆とか美学や意気さえ感じて若い頃より生きてきた私でしたが、堅気となり仏門入りし、スピリチュアルな学びも始めた私にとって、いつからしか、真の意味でこの世界に他者はおらず、自分が世界に送り出したものは、例え時間のラグをそこに生じさせても、また自らも受け取らなければならない真実を突きつけられるものを感じるばかりで…言い替えるなら人を裁けば自らも裁かれ、人を蹴落とす為に謀れば、また自らも同じ様に謀られる因果応報の理(ことわり)の外にいる人間は誰もいない事に目を向けさせられるかの様な時もあり、そうならば、何で人を傷付け暴力(言葉でも)を振るい、追い込む事など出来るのか!?それは結局「他者と言う幻想」を通して自分にしている事に他ならない事が、身に沁む様にわかり始めた頃と言うのは、それまでの自分が全否定されている様な無力感や喪失感にとらわれたもので、強い葛藤を感じた時さえあったものです。
それはちょうど、子供の頃に、同じクラスの女の子に、イジメやケンカを見咎められ「何で強いのに人をイジメたり、暴力なんかふるえるのよ!ほんとは弱っちいから威張って泣かせてるだけなんでしょう!本当に強い人はそんな事しないって、お父さんが言っていたんだから!」と強く詰られた時に感じた悔しさともバツの悪さにも似たものだったのかも知れません。
真実はシンプルに突きつけられるものです。
この牛丼屋で私を怒鳴り付けてきた人間が私から顔を背ける様に視線を向けた隣には、可愛い目をした、まだ小学1、2年生位の男の子が座っていたもので、てっきりこの男と並んでカウンターに座っていた夫婦連れの子供かと思っていたものですが、そうではなくこの男の子供だった様で、心配そうな顔で私を見ているのでした。その子供の瞳に、私は子供の頃、人情もろい一面はあっても酒乱の気のあった父親に連れられて表に出た時など、酒に酔ってケンカするのではないか?何かまたトラブルを起こすのではないか?とビクビクしていた事などを思いだし、この子供が不憫でならず…次の瞬間には「この馬鹿が!」と言葉が口をついて出たものです。
この時には件の店員は私の顔色が変わったのを見てマズイと思ったのか小声で騒ぎを起こさないで欲しいといった風情で「スイマセン、スイマセン」を繰り返し、私を怒鳴り付けたこの子供の親も、私と視線が合わない様に勘定を済ませて子供の手を引いて店からそそくさと出て行ったものです。私が「馬鹿が!」と言ったのは、自分だけならまだしも、子供を連れて表に出ている時に見ず知らずの人間にケンカを売る様な事を言えば、子連れだからと言って遠慮してくれる相手ばかりではない事を知らぬこの男の身の程知らずに言ったものでしたが、表に出たなら脇の駐車場にビール瓶が2、3本転がっていたなと…もしケンカになりこの男と体格の差があり劣勢になる様なら、ビール瓶で頭をカチ割ったれと、相も変わらずのゴロツキ根性な自分…たとえいっときでもそんな思いに駆られていた自分が情けなく、悔しく、そんな自分に吐いた言葉でもあったのです。
自分には甘く人を責めるに厳しいそれまでの自分の性癖と言うもの…牛丼屋の店員の不貞腐れた態度や私を怒鳴り付けてきた男の態度と言うものさえ、こうしたサプライズの様に発生する感情を揺さぶる出来事に対して、私の中にある何かが象徴化されている事を認め、即座に想いの中で浄化する事が出来る様になったのは、これよりしばらく時間を経ての事でした。
振り下ろす鉄槌もなければ、相手も場所も無い事…時には抗うものを感じても、自らの思いを浄化し、心の垢を落としてきた事、私の場合これも、スピリチュアルな世界で言われる気付きや学びだったに違いないのてす。
合掌