※社会通念上不適切な表現や描写がある事をお許し頂きたいと思います。
さらさらと、たださらさらと、水の流るる
正確な内容ではないかも知れませんが、上記の俳句は、今から30年程前に極道の世界で大組織の分裂による抗争に於いて、大組織の組長、若頭、ボディガード役の組長を射殺したヒットマンが残した辞世の句です。
この大組織の組長が射殺された昭和60年の頃と言うのは、私は神奈川県にある特別少年院に入所している頃で、足もかじかむ厳寒の頃、独房に備え付けられたスピーカーから、ラジオ番組の合間にテロップの様に流された臨時ニュースで、この事件を知ったものです。
当時はまだ血気盛んな十代後半の私でしたが、少年院送りとなった事件の内容も、傷害事件などに加え、地方の共産党の事務所の敷地に乱入した住居不法侵入や、ソ連(現ロシア)漁船寄港に協力する福島県小名浜市にある海運会社が、ソ連スバイの温床になるとしてガラスを蹴破り乱入するなど、複数の事件で起訴され、当時はまだ右翼団体に籍を置く頃でもあり、事件の内容も右翼色の強いものがありました。
そんな私も少年院を出院後は、両親のいる実家に帰るも、それも少年法による保護観察が切れるわずか1、2ヶ月の間だけで、また元の組織に戻ったのです。
でも、それもつかの間…
建設会社を経営し、ペンは剣よりも強しとばかりに、自社で発行する機関誌を巧みに脅しの道具、暴力装置として利用し、さる地方財界に隠然たる力を持つ、元ヤクザの社長に対して、私が所属する組織が、連日に渡る街宣車による大音量での糾弾に入ったものでしたが、いっこうにこの社長がギブアップする様子がない事から…当時私の下にいた舎弟分と共に、バケツになみなみと入れた糞尿と、ニワトリを用意し、ニワトリを頭から逆さまにバケツに突っ込み、脅しの道具に発煙筒をガムテームでダイナマイトに模したものを、たっぷんたっぶんと糞尿溢れんばかりのバケツの中で、窒息せんばかりに悶えるニワトリの入ったバケツと共に、この元ヤクザの社長の経営する建設会社に投げ込みバラ蒔いたものです。
この件で私は少年刑務所に服役したのですが、私が所属していた組織は、私が服役中に右翼からヤクザへ様変わりしており、冒頭の射殺された大組織の組長の出身母体の組(現在解散)の傘下になった事から、出所した時は火中の栗を拾うかの様な大抗争の最中…若き日の勲章欲しさと功名心にはやる私は、組織の鉄砲玉として自らを駆り立てて行った事は今までも「人生交差点」シリーズの中で書いてきた通りであります。
私はヒットマンの一員として敵対組織の幹部や首級をつけ狙い、西に東に潜伏するかの様な日々が続いた時があります。実行に及んだ時、警察による検問など、非常線が張られる時間や、県境をまたいでの逃走経路を考えるなど綿密なものもそこにはあった様な気がします。
車も移動手段として当然必要であり、都心のナンバーや他県のナンバーをつけた車での移動は目立つ事から、ターゲットのいる地域のナンバーをつけた車を用いるのが常でした。
そんな時、その地域に友達や親しい人間などがいれば、車を貸してくれる様頼む時もあるもので、勿論、ただでさえ、人に車を貸すのは嫌な人間が多い事から、誰にでも車を貸してくれる様頼めるわけでもなく、頼む人間も選らばなければなりませんでしたが…「○○ちゃん、4、5日車貸してもらえないだろうか?」と頼んだとすると…「それはええけど、何すんの?」と聞いてはくるものの、「いやちょっとそっちの方で用事があってね、すまんけど貸してもらえるだろうか?」と不明瞭な答えをしているにも関わらず、極道をよく知る人間はそれ以上詮索する様に聞いてはこないものです。
車を借りる方にしても、単純に車の貸し借りの話しで終始しておけば、もし事件を踏んで車の持ち主のところまで警察の捜査が及んでも、取り調べで車を借りにきた人間の名前は出しても、車がなんの為に用いられたのか?は聞かされていなければ、知らない事は警察に話しのしようが無いからであり…
車を貸す側も、法に触れるややこしい事をいたずらに聞き、共犯の疑いで逮捕される心配など、重いものを背負わされたくない心理は当然働くわけで、お互いの精神衛生上の上でも、安全策としても、理に叶ったものがあるのでした。
TVのドラマなどで、よく指名手配で追われる逃亡犯が、遠く離れた田舎町に逃げた果てに捕まるシーンなどが放映されている時がありますが、ほとぼりが冷める一時の事ならまだしも、閑散とした田舎町に見知らぬ顔の人間が長い間いる事は嫌が上でも目立ち不審に思われやすく、足がつきやすい(バレる事)ものなのです。都心は警察による職質(職務質問)のリスクなどはありますが、隣の住人には我関せずのドライな人間感覚の東京などに出て、人の波にまぎれてしまう方が、人の多さが保護色となり、捕まりづらいと言う事もあるのかも知れません。
でも…それも人間の魂の運行からみれば、燃え盛る家の中で、箪笥を右から左に動かす程度の時間稼ぎでしかない事、自らの怖れが自らを罰せずにはおかない事、そんな真理に気付かされたのは、これよりはるか長い年月の後の事だったのです。
明日には狙う相手を射殺し、身体の賭かる(長期受刑)かも知れない私達の気持ちをほぐすかの様に、ヒット(狙撃)の見届け役をつとめる若頭(破門の後に病死)や叔父貴分が、移動の車中では冗談や若き日の失敗談を話しては笑わせてくれたものでしたが…
「そんなもんな、人間の寿命みたいなもの、はなから決まっとるんや…そやろがい、命欲しさに防弾チョッキ着たかてやな、足撃たれて死ぬ者もおるやないけ」とその道の先輩から極道社会の死生観が語られる時もあれば、「いいか自分たら、どんな綺麗な仕事(ヒット)をしても、御家(組)に迷惑かけずに懲役行って初めて仕上げた事になるんだからな…警察の取り調べでヤキが入って切なくなったらかまわん、寂しくなったら俺の名前をうたえ(自白する事)」とは若頭の言葉でしたが、そんな言葉も連帯を深める為の一つの社交辞令、うかつに「ハイ」などと素直に返事をすれば、警察での執拗を極める取り調べに不安がある事を認める様でもあり、「いえ、大丈夫です」と返事だけしておいて窓の外に視線を移した私でした。
窓外に拡がる山や川、自然の美しさが身に染む事に於いて、西に東に迷走するヤクザの鉄砲玉であろうと何ら変わりないものがあるのです。
結果がすべての極道の世界、約5年に渡る抗争の趨勢も見えだした頃になっても結果を出せぬ若頭(死去)に組内でも…
「金ばかりつかって誰も殺れねえじゃねえか!」
「経費で風呂屋(ソープランド)ばかり行って色ボケしてるんと違うんかい!服まで買って、あれらのしている事は遊び仕事だ」
と言う様な、声なき批判が出始めている事は私も知っていました。
またある時などは行動隊の私達の控えるドア一枚隔てた隣の部屋からは、「コラッ、おどれ向こうの幹部の一人も殺れんと何が若頭(カシラ)どいっ!ええか、向こうの人間の一人や二人殺さん事には、本部へ行って親分の舎弟だなんて威張っとれんのがわからんのかい! 今までワシの組の若頭させた中でおどれが一番不出来の若頭じゃ!」と播州弁で若頭にカマシを入れる親分(死去)の怒号が聞こえてくる時もありましたが、それは控える私達にも聞かせているに違いないものであり、同時にこの言葉ほど、極道の世界の究極にあるものを言い現した言葉もない様な気がしたものです。
この若頭にしても学生の頃はラグビーで活躍したそうで、極道の世界には学生の頃など野球やスポーツの世界で優秀な成績を修めた名選手も隠れて多いと言ったら意外でしょうか?やがてドロップアウトし、極道の世界に足を踏み入れ、この親分の若い衆になったそうですが、若い頃はデタラメで先輩を襲撃するなどして組を破門になったそうで、トラックの運転手などもしていた様ですが、極道の世界への望郷の念消えず、ある時親分に呼ばれ「お前にも寂しい思いをさせたな…いいから帰って来い」と涙を浮かべて語る親分の言葉に頑なにしていたものが崩れ、極道の世界に舞い戻った事なども私に話してくれた時があったものです。
まだ私が現役の極道の頃、「ヤクザなんて、よっぽど人に虐げられるのが好きな人達がなるんじゃないですが?神経ピリピリ使って気の休まる暇もない生き方なんかどこがいいんですか?」と聞いてきた人がいます。
片親など、親からの情愛を受ける事に乏しい子供時代を送った人間が極道の世界には多く、そんなヤクザにとって、この若頭の様に、厳しく怒鳴られ、時にはどつかれる事があっても、自分を認めてくれたたった一つの出来事や言葉に絆を見出だし、身体を差し出すのもその世界ならではの情の在り方だった様な気がします。
でも、これはヤクザの世界に限らず、将来の展望が望めない会社でも、そこの経営者なり上司に意気を感じて付いていく男の心情に、はたから見ればさっさと別れたら良いとしか思えないDV夫と一緒にいる妻の中にある心情にも、本妻と別れると言いながらさっぱりな男に半ば愛想を尽かせながらも別れられない女性の中にも、同じ鋳型のものがあるのかも知れません。
暴力やヤクザを礼賛するつもりはありません。でも、今となっては、人間とは不条理で身勝手で弱い生き物である事、だからこそ愛すべき生き物である事も教えてくれていた様なヤクザの世界だった様な気がしてなりません。
抗争に結果を出せない事から焦りの出ていた若頭でしたが、ある時-「○○の2号(敵対組織の幹部の愛人)宅が分かるかも知れんから、その時は自分(私)パイナップル(手榴弾)放り込んでくれるか?15年や20年懲役行っても俺とそんな変わらない年で刑務所から出てこれるからいいら」と言葉の末尾に「ら」のつく静岡弁で私に言ってきたものです。
それに対して私は「カシラ、わかりました」と短く答えたものでしたが、この当時なら機会あらばためらう事なくパイナップルを投げ込んだであろう私であり、スピリチュアルに気付きを得て仏門に身を置く今となっては、二度と戻る事の無い境涯に生きた日々でもありました。
その後抗争は急転直下終結し、親分は引退し組織は解散しました。一時は引退した堅気となった親分の不動産の会社に従事していた若頭でしたが、その後極道の世界に復帰するも、元親分への裏切りが判明した後に破門され、出所後ほどなくしてガンで死亡した事なども、風の噂で耳にしたものです。
もう15年ほど前になるでしょうか…「撃てばかげろう」と言うヤクザ映画の秀作がありました。その中で主人公が敵対組織の組長を射殺し、逃亡の果てに倒れ、やはり元極道の居酒屋の亭主に匿われるシーンがありました。意識を取り戻した若者に菅原文太扮するこの居酒屋の亭主は事情を察していながら「何をしてきたのかは聞かんが…何を撃ったところで所詮かげろうよ」と言ったものです。
堅気の人にくらべてはるかにハードな晩節を迎えやすいヤクザの生き方、非業の死やその世界に生きる人間の寂しい末路も見てきた私にとって、撃てばかげろうとは、ヤクザだけに限らず、私達人間が、何かを求め叩きつける様な情熱の先にさえある無常そのものの様な気がしてなりません。
若き日に、この若頭と刺客の旅先で見た深緑の山々や海の蒼さを思い出した愚僧であります。
合掌