昨日は夕方より浅草に托鉢行に出ました。たくさんの方が愚僧に合掌してくださったものです。
お母さんに連れられたつぶらな瞳をした小さな女の子が私が左手に持つ鉄鉢に百円を入れてくれました。
上を見上げる様に私の目を見て合掌する子供の姿…
この子供の前に法衣を着て立つこの男は、今でこそ僧侶の出で立ちですが、かつてはアウトレイジな世界に生きた人間でした。
その頃の私は、自分を慕い付いてきている人間に…
「アホかバカ野郎!オマエ慈善事業でヤクザしてんのか?俺が親しくしている人間だからって何を遠慮しているんだ?そんな事言ってた日には右を向いても左を見ても遠慮してメシなんか食っていける事あるかい!一度噛んだ話ならとことん行け!しっかり顔を立ててもらえや!」とよくハッパをかけたものです。
ここで「しっかり顔を立ててもらえや!」と私が言っているのは、「しっかり金をふんだくってこい」と言っているに等しいものがあるのです。
※浅草寺境内の夜桜、八分咲きと言うところですが、とても綺麗でした。
そんな私の極道当時の世界モデルの一断面と、仏教の托鉢を比喩するのは乱暴に過ぎるのかも知れません。
私を裏社会から仏門へと導いた師僧が、私が初めてそのお堂に訪ねた時、極道の世界を「修羅の行」と話してくださったものですが、これも今思えば、その世界ならではの托鉢だったのかも知れません。
※本堂や五重の塔も、ライトアップされてとても綺麗でした。
時には慇懃無礼に、時に高圧的に、時には暴力そのものだったその当時の修羅の世界での私の托鉢行は、あらゆる破綻を描き、出口の無い無間地獄をさ迷っているかの様でした。
この日、鉄鉢を持つ私の目の前に立つ子供の目を見る時、お互いのやすらぎが延長された様な暖かさだけが胸にこみあげてきます。
浅草寺のお堂での参拝を終えてこの子供が母親に手を引かれて再び愚僧の前を通りました。
中国やアジア圏から観光で来ていると思われる一団にもみくちゃにされる様に歩いて行くこの親子…そんな人波の間からこの子供が「お坊さん、ワン、ワン」と、可愛い犬の鳴きまねと共に手を振って去って行きました。
そんな子供の後ろ姿を見送りながら、自らがお布施をしてくださる方の神性を映し出す鏡の様に、そして相手の方に映し出される自らの神性を認める事の出来る自分である様に…刹那の出会いに感じ取る托鉢の極意と言うもの、改めてヒーリングやセッション、日常全てに拡げて行きたいと願った愚僧であります。
※甘味処「梅園」にてあわぜんざいを食べました。小さき煩悩でしょうか(笑)
合掌