ある時…霊能系のカウンセラーの方が会話の中で「正仙サン、私はセッション以外のプライベートでは、人に何かが見えてもよほどの事でもないかぎり黙っているのですが、つい最近、セミナーを終えての懇親会で、私の守護霊は何ですか?元カレの生き霊とか肩に憑いてませんか?なんて聞いてきたお客さまがいたので、『申し訳ないがセッション以外では見る事は出来ませんので…』と、丁重にお断りしたつもりでいたのですが…この方気分を悪くしたのか?私が本当は霊視する能力などない『普通の人だ』みたいに周りに言いふらしていたのが人伝に私の耳に入って、気にしちゃいけないとわかってはいても、ムクムクと怒りが湧いてきて、ちょっと今怒りのパターンから抜けきれないのですが、正仙サンはセッション以外でも、オーラを視るとかリーディングのサービスをする時はあるのですか?」と聞いてきたものです。
それに対して私は「そうでしたか…でも、○○さんと私も一緒ですよ。そうした場合、私もタダ(無料)のリーディングは真っ平ごめんですなんて、冗談カマシながらサラリといなしてしまいますよ(笑)」と、答えたものでしたが…
私などもこうした受け答えを常としている事からか、以前など『正仙サンは普通の人だよ』とか、『あの人はタダのリーディングはしないわよ(オーラやチャクラを見る事)』などとご親切に言ってくださる方もいた様で(笑)元来地獄耳の私は、子供の頃から自分に対しての風評などを人の口を通してでも確実にキャッチしてしまうところがあるのですが…この様な事を私の耳に入れてくださった方には…
「私が普通の人って?それじゃようやく私も多少精進したお陰で世間一般の方達と変わりなく、人相も良くなったと言う事だね(笑)」とか…
『いやいや、私がセッション以外ではタダじゃリーディングしないって言ってくれる方がいた方がかえって有り難いですよ、だって、カレー食べている様な時に『私に水子の霊って何体ついてますか?』なんて聞かれてもチョットどもるしね(笑)」などと、少しばかりはぐらかした様に答えたものです。
でも本当は、私の耳に入れる事が良かれと思い伝えてくれた方の言葉を聞いている内に、私の耳に伝わるまでの「言葉の来歴」とでも言うべきエネルギーを見る事で、私の噂をした当初の方の言葉の意図と言うものがわかってしまい、そこに深刻なものなど無い事もわかっていた私でもありました。
言葉の来歴からエネルギーを見る時、「あの人普通の人だよ」と初めに私を評してくれた方の想念には「悟りすましている様な人ではなくて、人間的な人」と私を分類している感覚がある事などを受け取ったものですが、ところがこれを聞き、私の耳に届けてくれた人の胸の中では「スピリチュアルな能力など無いただの普通の人」と言う具合に深刻でネガティブな中傷に変換され受け取っていた事もわかったものです。
また「あの人はタダのリーディングはしないわよ」と言う言葉も、セッション以外の飲食の席などでは、基本私がリーディングなどのデモやサービスはしない事を知っている方から発されたものであり、そこに悪意などない事は明らかなのですが、それを聞き、私に伝えてきた人の中では、まるでお金なしではヒーリングやセッションを一切しない拝金主義の権化の様な姿に変換されているものがある事などもわかり、少しばかりおかしくなった私でしたが…
これはとるに足りない些細なケースかも知れませんが、でもこんな事にも、人の噂話や悪口、中傷をする事の恐さや愚かさと言うものが現れているもので、他人を評して発した言葉は、たとえ時間を置いても慣性を持つエネルギーの働きとして本人の耳に届くものである事を肝に命じるべきかも知れません。悪意の無いものとして発された個人の噂話でも、人の口から口へと経由される中で、全く意味の違うものに変質し、人同士を争いに向けて行くのもエコの振り子の法則であります。
私は実際、セッションなどでは半トランスとも言える変性意識状態からリーディングに入っていきますが、日常の顕在意識の活発な時も、話している内に、オーラやチャクラの状態などやその人の声音からその人の今置かれている状態などがわかってしまう時があります。
でも…日々人生に直面する事から気持ちが強くなったり、弱くなったりするのも人間であり、これに伴いオーラやチャクラもリアルタイムで影響を受けるものです。
こうした事から、セッションでもない、まして頼まれもしない席で、見えるものや感じるものを一々伝える事は、私の場合、お節介も甚だしいものに感じ、口にしない事がその殆どでもあります。またそうした事はどこにいても安請け合いの様に人のエネルギーを見る都合にプログラミングされるものを感じ、プライベートとの区別もなくなる事から、自分の中でさけているきらいもあります。
でも、ここ一番、お役目と言う様な時は考えるよりも早く、相手の方に色んな事を伝えていたりもしますが(笑)
その昔、私は極道の世界にいましたが、人を追い込む時に『コラッ!ワレ吐いたツバ飲むなよ!』とはよく言ったものでしたが、揚げ足の取り合いのヤクザの社会に於いて、約束事や言った、言わぬの些細な事から大きなトラブルになる事は間々ある事で、見栄や虚勢、面子に生きる裏社会に生きる人間にとって、自分の悪口を放置しておく事は、例えが悪いかも知れませんが、電脳レイプされたかの様な屈辱に甘んじるに等しいものがあるのです。
こうした事から相手に自分の中傷をしたか?と確かめたところで、「はいごめんなさい」と素直に謝るくらいならヤクザはしていないわけで(笑)「言ったならどうした?やる言うんかい!」と意気な啖呵を切る腹の片隅では、自分の吐いた言葉の顛末にシマッタと思いながらも居直り喧嘩するのも極道であり、こうなれば、後は行き着くところまで行くしかなく、謝り穏やかに誤解を解くなどと言う悠長な事など通らぬ場面も間々ある世界だった様な気がします。
こうした場面でも、噂に尾ヒレが付き、かたやが空気がパンパンに入った状態で争いになってしまう場合も多く、私なども成人間もない二十代前半の頃など、内輪と呼ばれる同系列の組織の人間から、影で私の名前を呼び捨ての上噂していたと言うただそれだけが許せず、内輪揉めはご法度であり、明るみに出れば破門でしたが、血気盛んな頃であり、相手を刺し殺さんとばかりに、出刃包丁を腹にその人間のいる事務所に乗り込んだものでしたが、ちょうど事務所に居合わせた叔父貴分などに止められ、事なきを得た時がありました。
でも、不思議なもので、この人間とはその後、肝胆相照らすかの様に意気投合し、抗争要員として、潜伏する様に各地を転々としたものでしたが、平成に入って間もない頃、まだ二十代前半で非業の死を遂げてしまったものです。今となっては、どこかしらあどけない表情をしていたこの人間が、懐かしく偲ばれる時があります。
話しは変わりますが…
誰しも自分が信ずるものが一番と思う傾向がある事に於いて、スピリチュアルな世界とて例外ではありません。ヒーラーやスピリチュアルカウンセラーやセラビスト、占い師なども高い授業料を払ってスキルや資格を取得したり、人によっては高額なセミナーに参加したりと、師事した講師や教師への尊敬の念と共に頑なに信ずるものが出来上がっている場合も多いもので、これは人の信ずる神や宗教にも置き換える事の出来るものと言えるかも知れません。
でも、これが強すぎるとかえって仇になり、どちらが正しいのか?間違っているのか?スキルやその解釈で論争になったり、人の持つスピリチュアルな概念やスキルを否定するあまり、その人自身の人格の否定にさえ繋がりかねない脆さがある事も、現代のスピリチュアル世界の風潮としてある事など、今までセッションや色んな方からお聞きした話しなどを通して、お見受けしてきた事でもありました。
スピリチュアル関連の人間が集う食事や飲食の席などに於いても、お客様に自分の持つスキルやテクニックを、自己責任の範疇で提供する事は集客や理解を深める上でも良い事かも知れません。また、お互いのヒーリングやリーディングのテクニックやスピリチュアルな体験事例などをお互いの侵害にならぬ様にサラリと会話で楽しむのも良い事に違いありません。
でも、これも行き過ぎればお互いの持つスキルやスピリチュアルな概念や優越性をかざして闘う事になりかねないものがあり、はたから見るとそれはスピリチュアルに名を借りた自己の存在、アイデンティティを巡る争いに映っている事に当人同士が気付いていない場合も多く…
争いや対立に人間をプログラミングしようとするエゴがもたらす『振り子の法則』である事に於いて、神や天使、愛や光りを語るスピリチュアルな世界の住人であろうと、情け容赦ないものがある事はいつも私が引用している通りの事でもあります。
またワークショップやセミナー終了後の懇親会や飲食の席と言うものも、主催者の人間的な一面を知る事が出来たりで、親しみを増す方がいる一方では、カリスマ化されたものと実像との間にギャップを生じ、百年の恋も一夜にして冷める様な幻滅を感じたと今時の自己啓発系のセミナーに出席された方などが正直な感想を話してくださる時があったもので、こうした事象なども私が昔いたその世界では『メッキが剥げる』などと隠語で表現したものでした(笑)
またセミナーやワークショップ終了後の懇親会や食事会を催す時、一部のお客様の中で主催者と友達感覚になってしまい、本来なら料金を払ってセッションや鑑定をお願いすべき内容を、普段のリアルタイムの中でメールや電話で繰り返し質問してくるなどの越境をしてくる人がいる事などから、エネルギーの過干渉を防ぐ意味でも、一切懇親会や食事会をしないと方針を定めているスピリチュアル関係者も多かったりするもので、この他にもストーカーと化す男性の客に対するセキュリティの意味で、同様の対応を講じる女性のイベントやセミナーの主催者もいる様です。
どちらが良いとは言えませんが、少なくともスピリチュアルや霊性を語る人間として、たとえ皆さんとのリラックスした笑い溢れる懇親会や食事の席でも、襟を正し真摯な姿勢は大切ではないでしょうか。
意外かも知れませんが、サラリーマンの世界にある様な酒席での無礼講など、極道の世界では考えられない事であり、私なども酒を飲んでも崩れぬ様に若いうちから鍛えられたものでしたが(笑)これも他の人間に遅れをとらず侮られない為のその世界での修行でもあり…
そんな世界に生きていると、緊張の中にも息を抜く術を覚えるもので、人の介する飲食や懇親の席でも、何が人に失礼にあたり行き過ぎなのか?またどこまでざっくばらんにオープンに楽しんで良いのか?その場に集まる人を見てかぎ分ける能力さえ長けて行くもので、それはアウトレイジな世界の逆説的なマナー術とさえ言えるものかも知れません。
電柱に犬小便をかけて縄張りを示す事をマーキングなどと言ったりしますが、ある時私に、よくスピリチュアル関連の食事会などに出席されている方が、ヒーラーやスピリチュアルカウンセラーやセラピストなどが集うと、まるで自分の持つスキルやテクニックをひけらかさんばかりに話すその姿が「不謹慎かも知れませんけど、まるで犬が電柱にマーキングしている姿に重なるものがありました」と語っていたもので、この女性の皮肉なユーモアに思わず笑いの出てしまった私でしたが、こうした冷めた視線もある事、スピリチュアルに生きる人間も、戒めとして忘れたくないものです。
合掌