蓮華の汚泥に染せざるが如し

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※得度式の写真です。今とはだいぶ人相も違うかも知れません(笑)

タイトルの『蓮華の汚泥に染せざるが如し』とは真言密教の護身法の中で出てくる泥沼の中でも綺麗に咲き立つ蓮の華の在り様を指した言葉です。

数年前、ある方が私にメッセージをくれました。

そこには『私は現役の極道ですが、陰ながら応援しています。』と書かれていたものです。

その方はとある地方の極道の組長でした。
私より歳は若い方でもありましたが、メッセージを頂いた事から、この方のアメブロの記事を拝見すると、文才があり、反骨の気概もあり、人権の問題などにも極道とは思えぬ透徹した視点を持ち、文章からも非凡なる論客である事が窺えたものです。

極道でありながら禅を愛すこの方に、この時すでに禅僧の風貌が私には見て取れる様な気がしたものです。

私はその後、この方と特に交流してきたわけではありませんでした。
でも、時折この方の書く記事を読んでいたのでした。

すると、ある時からこの方の記事に『仏』の文字が盛んに現れる様になったもので、私はそれを目にした時『いつかこの方も…』と心に思う事があったものです。

私が極道当時、その道の先人は私に言ったものです。
『ええか…ヤクザはの、殊勝な事なんか考えたらあかんのや。』と…

極道の世界の親分、子分、兄弟分の契りを交わす盃事(さかずきごと)と言うものも、会場の中央には天照大御神の軸装を掲げ、供物を捧げ、神道の儀式を思わせる媒酌人の口上など、厳かな雰囲気の元に進められますが、かと言って、そこに真摯な信心や信仰が必要な訳ではありません。

極道にとっての宗教観とは、葬式は仏教、初詣は神社と言う様な、一般の人間の感覚と同じで充分に違いないと当時の私は思ったものです。
極道の世界自体が、ヤクザ教とも言える一般社会から隔絶された世界であり…
白いものでも黒と言われれば黒と信じ、親分を神とも親とも崇め、忠誠を誓わなければならぬ世界で、神や仏に気もそぞろに浮気をする様な人間は信用に値しない、そんな価値観を持つ世界だった様な気がします。

それに『なんだよおい、仏心ついてあんたそれで極道出来るのかよ?神だの仏だの言って、あんたいざとなったら組織の為にカラダ張れるのか?人を泣かせてメシだって食べて行かなきゃならない世界なのに、あんたは後ろに隠れて念仏でも唱えているつもりか?』と言う様な、恐れに似た皮肉な視点と言うものもそこにはあり、

神仏の事などを迂闊に語れば『こいつ宗教ボケしていやがるな?』と心の弱さを値踏みされる様で、実際は信心深いものがあっても、神仏には無関心を装い、せいぜい『初詣で○○神社に行ったら馬券当たったわ!ご利益あるらしいわ、あの神社、アハハ!』と言う様な博打運に揶揄した話しで終わるのが関の山なのかも知れません。

現に私などもその世界にいる当時、私の事務所を訪ねてきた新興教団の活動に傾斜し始めた企業舎弟の目を見据えながら…
『お前、神に手を合わせているせいか、すっかりおだやかで綺麗な目になったじゃねえか?もうすっかりカタギの目だな…お前神に手を合わせてかたやで悪さしてメシは食べていけないだろう?ここはお前の来るところじゃねえよ、二度と来るな。』と諭した時があったものです。

冒頭の方も、若き日より身を置いた極道の世界より離れる決意を固めた旨、簡潔な文章ながらメッセージで伝えてきてくれました。
この方のブログタイトルだった極道の上に『元』と言う文字が付き、元極道の仏道修行、求道者と言うタイトルに置き変わっています。

文章にすれば僅か数行の事でも、これがどれ程勇気のいる事か私にはよくわかります。

時には寂しくもあり、向かい風の強さを感じたり、はぐれ者にとって暖かくもあり冷たくもあった極道の世界に郷愁を感じたりと、私自身を振り返って見ても、僧侶ヒーラーとして活動する今に至るまでには色んな心情過程があった様な気がします。

この方が禅僧として立って行くのか、その形態は私にはわかりません。

でも一つ言える事は、長い間修羅の世界に生きたこの方は、時には地獄の沙汰にまで踏み込み、人をわしづかみにしてでも引き上げ助ける力を持つ、光りの使者の資質があると言う事です。

この方の中で前途に晴れ渡るものを感じた時、きっと実名を出してご紹介出来る日も来ると思います。

同氏の今後のご活躍を心よりお祈りしたいと思います。

合掌

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