下記にある『エゴは攻撃を通じた償いを信じ、攻撃が救済であるという狂気の考え方を全面的に採用している。』とは、私達人間が気付かぬ戦争の根にあるものの様な気がします。
ある本のアセンデットマスターと著者の対話から引用
【著者】
だって、いつも実践するなんて、頭のおかしな聖人さまでもなきゃ無理だと思うことがある。
決して誰にも不平不満を抱かないなんて、できるかい?
決して批判せず、糾弾せず、攻撃しないなんてさ?
悪い考えを抱いたら必ず気づいて赦さなくちゃいけないんだよ。
自分の怒りを正当化できると思ってもいけない…
そんなの不可能じゃないか。
【アセンデッドマスター】
怒りは決して正当化されない。
攻撃にはまったく根拠がない。
恐怖からの脱出が始まり、完成されるのはこれによってである。
どうしてこれが重要か?
言葉であれ暴力であれ、きみが自分の考えで誰かを攻撃したり、誰かがきみを攻撃したように見えるとき…。
救済の秘訣は次のことしかない…あなたはそれを自分自身に対して行っているのだ。
攻撃がどんなかたちであっても、これが真実である。
あなたが感じる痛みと苦しみの原因が何であるように見えても、やはりこれが真実である。
夢を見ているとわかっていたら、あなたは夢のなかの人物に反応しないだろう。
どれほど憎むべき悪人に見えても、あなたが夢を見ていることを忘れない限り、あなたには何の影響も及びはしない。
きみが夢のなかの人物を批判して、それによって夢を現実にするたびに、まっさかさまにエゴの罠に落ちる。
自分が罪を償わなければならないと信じるか、誰かに罪を償わせなければならないと信じるか、あるいはその人々がきみの糾弾に値すると信じることになるから。
罪悪感を現実とし、それから償っても、罪悪感を消滅させることはできない。
それは消滅させる代わりに罪悪感をもたせようとするエゴの計略だ。
エゴは攻撃を通じた償いを信じ、攻撃が救済であるという狂気の考え方を全面的に採用している。
そしてエゴの教えのなかには、罪悪感からの逃げ道はない。
攻撃は罪悪感を現実にするし、それが現実なら克服するすべはない。
【著者】
それじゃ神がぼくを赦す必然はないんだ。
ぼくは他者を攻撃するのではなく赦すことによって、ぼく自身を赦すんだね。
頭のなかで判断するだけで何を言わなくても、攻撃的な考えはやはり攻撃的な考えだよね。
だから自分の考えをしっかり見張ってなくちゃいけない。
攻撃するにしても、赦すにしても、ぼく自身に向かってしていることだ。
どっちにしても他者は現実ではないから…
ぼくが集団的な心のシンボルであるように、彼らはぼくの心にあるものの象徴に過ぎない。
この世界には神の赦しは必然じゃない。
人は見るイメージを赦すことで自分たち自身を赦す必然があるんだな。
【アセンデッドマスター】
そう、まったくそのとおり。
神は赦さない。なぜなら一度も糾弾したことがないから。
そして赦しが必然となるなら、その前に糾弾がなければならない。
この世界では赦しの必要性は大きいが、それは幻想の世界だからだ。
したがって赦す人々は自分自身を幻想から解放するし、赦そうとしない人は自分自身を幻想に縛りつける。
あなたがたは自分自身を糾弾しているだけだから、自分自身を赦すだけである。
神は赦さないが、しかし『彼の愛』が赦しの基盤であることに変わりはない。
合掌