仏陀が『一切の神仏を礼拝してはならない…』と言った事はあまり知られていません。
これだけ聞けば、仏教の開祖が神仏をまるで否定するかの様にも聞こえます。
でも、本来宗教ではなく、人間の悟りや覚醒の道として仏教を興した仏陀でもありました。
幼い物心ついた子供に『あれが神よ!』『これこそが神だ!』と親が指し示す時…
子供の中の世界観や神と言うものに、特定の鋳型を与えてしまう事もある事に気づいているでしょうか?
こうした事から、猛烈な宗教や神仏に対するトラウマが出来たりしてしまう事、セッションに訪れる方からもお見受け出来る事があります。
私は以前、現地の御僧侶の運転する車で、伊勢神宮に参拝に訪れる事があり、休日でもあった事から、駐車場で長蛇の列を成して並ぶ車の後方で駐車待ちをしていた時がありました。
すると…一台の車が誘導員に気付かず、はからずも並ぶ車の先に割り込んでしまったのです。
それを後ろから見ていた私ですが、運転しているのはお年寄りの様で、老夫婦の伊勢巡りの風情でもあり、そこに悪意があったとは思えません…
次の刹那、私の乗る車の何台も後方の車より中年の男性が飛び出してきて、このお年寄りの乗る車の運転席に詰め寄り『オイッ!ジジィにババア!みんな並んでるのに何を割り込んどるんだ!このたわけがっ!さっさと後ろにさがらんかっ!』と怒鳴り声を上げたものです。
すでに続々と後続の車両が並び、後ろに下がれるはずもない事をわかった上で、詰めよる事をやめないこの男…
車の中で懇願するかの様に謝る老夫婦の姿に気が収まったのか、自分の車にやがて戻って行ったのですが…
外宮、内宮と巡る内にある社の前に来ると、件の声を荒げた男が、周囲の迷惑も省みずに中央に陣取り大音声で一心不乱に祝詞を唱えていました。
さっき、お年寄り夫婦を気の毒なまでに怒鳴りつけたその舌の根も乾かぬ内に…
私はそれを見ていて、『そんな心根のどこに神に響く言霊(ことだま)があるものか…』とも思いましたが、同時に、つい昨日までの自分自身の神仏観をそこに見せられている様でもあり、自分自身の想いの部分で大きく浄化するところがあったものです。
瑣末な現実や喧騒の日々を生きる感情の動物でもある私達人間…その未熟で時に不健全であればこそ、神仏に手を合わせ、その静謐で清浄な神や仏のエッセンスに触れ、自分を取り戻し明日への希望の糧とする…
そんな見方も出来るのかも知れません。
それは人間が、道から外れぬ様に引き戻すガードレールの様な一定の働きさえもたらすものかも知れません…
悪い例えかも知れませんが、それはまるで日々の自分自身からは目を背け、心の疼きから耳を塞ぐ為の処方薬の様でもあります。
今日拝み、明日には忘れてしまう神や仏の姿…訪れる神社やお寺や教団ばかりに神や仏が宿ると思う時、自分自身の中にある神性に目を向ける必要は無く、人の指し示す神や仏の姿に従う方が楽な事この上ありません。
人の指し示す神やスピリチュアリティに自らを委ねる時、その方との人間関係が消え失せた時に、同時に消える神や仏の姿でもあったりもするのかも知れません…
時にそれが気付きの上での砥石の役割を果たす事もあれば、そこに費やした時間や金が、人間関係の確執の種となってしまう時があるのも人間です。
儚い、人間の都合で輝きもし、消える事もある神の姿と言うもの…
人間の思考や感情、発する言葉には神や仏は宿らないのでしょうか?
自らの内に祭壇や寺院や聖堂があると思える時、形を持たぬ想念や言葉と言うものさえも、人に影響を及ぼす事がある事に気付き、優しく丸みを帯びたものに成らざるを得ないのではないでしょうか?
『一切の神仏を礼拝してはならない』それは覚醒者仏陀が、自らの内なる神の声から離れ、自分を見失い、マインドの罠にかかりやすい人間の弱さを見据えての戒めだったのかも知れません。
自分のハートに神性の源がある事を知った時こそ、訪れる全ての場所、寺院にも神社にも、山水草木から出会う人々の胸にも…神と言う愛の姿に感応出来るのではないでしょうか?
あなたの中にある愛や優しさが、あなたの見る神の姿にあまねく映し出されます。
合掌