※名画『雨に唄えば』のワンシーン
私達は予定外の雨に降られる時、色んな受けとり方をします。
時間に迫られた会社のプレゼンや営業の間際に降る土砂降りの雨それは『なんで俺ばかりなんでよりによってこんな時に!』と
((o(*≧д≦)o))
地団駄踏む様な気持ちになるのも感情の動物人間の私達にありがちな正直な感想かも知れません…
でも、こっちの思う事などおかまいなしに降る雨に…私達は腹が立つ一方で雨に濡れた姿がまるで仕事には本来関わりがないにも関わらず、雨に濡れる事自体が、自分の仕事が失敗する様な暗雲垂れ込める様な気持ちになってしまったり…
同僚や上司に雨でズブ濡れになった姿を嘲笑われる事までご丁寧にイメージしてしまう…想像力豊かな生き物でもあります(笑)
(=_=;)(^皿^)
でも、かたやある場所では日照り続きの土地を潤す恵みの雨だったり(逆の場合も最近は多いのですが…)暑さ続きの日に涼をもたらす雨として喜ぶ人もいたりで、その受け取り方も個々において違う事は言うまでもありません。
でも、雨に濡れて風邪を引く様な事になってはいけませんが、本人がマイナスと思う…雨にズブ濡れになる姿も、会社のプレゼンや営業などにおいても、逆にその人間の誠実さや真摯な姿を印象付ける役割さえ果たす事だって無きにしもあらずではないでしょうか?
私達には変える事の出来ぬ究極の現実があります。
もし、雨をその変える事の出来ぬ現実としたら…変える事が出来るのは自らの見方や受け取り方…時間に迫られた中での雨、ポジティブシンキングここに在り!とばかりに街中で踊り出せば会社に着く前に警察の職務質問にもあいかねませんが…笑
(゜o゜)\(-_-)
大きく深呼吸して『雨に濡れたところで、会議や営業に出ても問題はねえや!』と自分に言い聞かせる事は出来るはず…
そんな時、いつも気づく事のなかった雨が乾燥していた空気を潤している事の清々しさ…雨が連れてくる子供の頃に嗅いだ若草のむせる様な香りを感じたりもするのかも知れません…
出来事に意味を与えているのは他ならぬ自分でしかない事…
人や出来事や環境のせいと、被害者意識で呪う事もある面、内面のエネルギーの高さでもあり、時にそうしたものが生きる活力を与えているかの様に見える時もあるかも知れませんが、自分が投げつけたものは必ず自ら受け取る事…
因果応報とも引き寄せの法則とでも、自分の好ましい言葉で記憶すれば良い事でもありますが…いずれ自らがたとえ形を変えてでもそれらを受け取る事、無常の軌跡を描く事は、私は書物ではなく、自らの人生に見てきた事でもあります。
その一方で『へへん!なんだって!要するに受け取り方を変えろってか?笑わせるなよ!受け取り方を変えたところで起こる事は起きるし、何の得があるんだい?』と穿った見方をする事も出来ますが…
((`Д´) )
こうした視点は人ありき物ありきの考えに陥りやすく、人生に於ける自分の主体性を譲り渡してしまう事でもあり、時に出来事によって左右される感情の起伏やアップダウンを避けられない時も生じやすいものです。
すべての事象に自分が意味を与えている事…
雨だけでなく、人との関わりや出来事すべてにこうした視点を持ちはじめる時、たとえそれは緩やかながらも、人生の中で関わりあい出会い別れる人の中にも、出来事や環境にも穏やかさが見出だせる様になり、それはその体験を変え、そしてそれはその後の体験さえ変えて行きます…
すべてにあまねく伝播する働きがある事…例えば、口ウルサイお局様タイプの嫌われていた女性がある時期を境に、人から好かれる女性に変わる様なケースなども、口には出さずとも、何処かの部分でその女性が変容を決意している場合もあったりもします。
以前は人の揚げ足取りばかりして、重箱の隅をつつく様な事ばかりしていた人間も、変容を自ら重ねて行く時、以前であれば、他人の細かなアラ探しに発揮されていた他人に厳しいその視点さえも…
人の特徴を見抜き、美点を認める視点や視座、SOSを発信している大人や子供など、人間の機微を見抜く人間観察の眼力にさえ繋がる場合もあり、こうしたところにも『人生に何一つ無駄は無い!』と私がブログに事あるが毎に書く由縁があります。
人生にはこの世に生まれて来る前に決められたデッサンの道具があるのかも知れません。
出会うべき人とは出会う定めなのかも知れません…起こるべき事は起こり経験する事を選んで生まれてきているのかも知れません。
でも、人生に自分の好きなカラーを使い、どういう絵を描くかは、私達に任されているに違いありません。
とんだり跳ねたり転んだり…感情のおも向くままに両手で叩き付けるかの如く歩んで行くのも人間の生き方…そこに是非はないのかも知れません。
またそこが、スピリチュアルな世界で自由意思の星と言われる地球に来たレッスンの大きな意味のある部分にも思えたりもします。
ただ…今や多くの方にそれぞれ相応しい形で訪れている気づきと言うもの、共生や調和、色んな言葉でそれを形容する事は出来るかも知れませんが…そうした気づきの種子と言うもの、忘れたフリをし様としても、何度となく人生上に現れる事…
それは破局や破綻や病などの身体の痛みを通してさえアプローチして来る時がある事…このスピードが劇的に速くなっている事に気付いている方は本当に今や多いのではないでしょうか…?
最後に私が以前読んだ『神へ帰る』と言う本の一節を引用します。
神なしで生きることも死ぬことも不可能だが、そうだと思うことは可能だ。
あなたが神なしで生きて死ぬと思えば、そのとおりの体験をするだろう。
その体
験はあなたが望むかぎりは続く、自分が選べばいつでもその体験を終わらせることができる。
雨降り和尚より(笑)
合掌