おはようございます!
昨日ある雑誌を見ていると、孫悟空の事が書いてありました。
孫悟空と釈迦の話しは西遊記などで皆さんご存知の事と思います。
自分の力を過信した孫悟空の姿と言うもの…
そこには人間臭ささえも感じられ、過去の自分がダブる様でもあります。
釈迦に大見得を切り、如意棒を振り回し縦横無尽に暴れ回った孫悟空…
でも所詮は釈迦の手の平の中…
私がやくざだった頃は力を信じ、先頭に立ち、身体を差し出す生き方にロマンや美学を感じていました。
馬力があり勢いのある時はこうした自分の信念を疑うはずもありません…
しかしながら一度『それ』に触れてしまった時から、もう自分をごまかす事が出来なくなって行きました。
中学生の頃からグレて学歴不問のこの世界こそ我の生きる道と飛び込んだヤクザの世界…
楽しい事もありました。友情を感じ、心を通わせた友もいました。
しかしそうした事もうたかたの夢として消えて行ったのです。
私は若い時枕元によく刃物を忍ばせて寝ていました。
当時の私は一体『何を』恐れ『何に』対して身構えていたのでしょうか?
どれだけ突っ張って生きようと、どれだけ世間に対して斜に構えた生き方をしようとも
自分と云う『魂』がこの人生で渇望し成し遂げ様とする事に歯止めはかけられません。
そうした自分の内なる声を無視して生きたところで、来世に課題を持ち越すだけに違いありません。
神の考えるスパンは私達人間の考えるそれとは違いとても長いものかもしれません。
今世で達成出来ぬのなら来世で達すれば良いさ、とばかりに…
暖かく微笑みながら見守っているのかも知れません。
どんなに破天荒な人生を繰り返し、無数のドラマを演じ様とも、神はいつかは我々がそこに辿り着くのを知っているに違いありません。
やんちゃな子供が家から遊びに出るのを温かい眼差しで見送る母親の様に…
孫悟空が自分の手の指に落書きをし、立ち小便をするのを慈悲の目で見ていた釈迦の様に…
今日も皆さんにとって実り多き一日であります様に…
合掌